8月24日 「釜石の奇跡」その後

朝日新聞2019年8月19日夕刊7面:生き延びて消防士になった 岩手県釜石市に新設された釜石鵜住復興スタジアムは、9月に始まるラグビー・ワールドカップを待つ。白い鳥が翼を広げたような屋根と芝生のフィールド。周囲には仮設スタンドが立つ。そこは、東日本大震災の津波で全壊した釜石東中学校と鵜住居小学校の跡地だ。両校を含め、市内の小中学校のほど全員が無事だった避難ぶりは「釜石の奇跡」とたたえられた。ただ、そんな称賛にかき消された悲劇もあった。あれから約8年半が過ぎた。今春、地元消防本部の消防士に採用された土手大さん(21)は、釜石東中1年だった。2011年3月11日。激しい揺れで校舎から飛び出した。破裂した水道管から水が噴き上がる。「走れ!」の声で高台へ駆けた。途中で合流した保育園児たちの乗るカートを、女性教諭らが押して急な坂を上ろうとしていた。「代わろう」。野球が得意で脚力の強い土手さんらが交代した。両校と幼稚園の約600人が逃れた先は、国道45号の峠。校舎から約2㌔離れ、標高差は約40㍍あった。そこに津波にのまれた高齢男性が運ばれてきて、通りかかった救急隊員が蘇生を試みた。「見てはいけない」。土手さんは目をそらしたが、命を救おうと必死の隊員の姿勢に衝撃を受けたことが消防士を志すきっかけになった。今は内陸にある県消防学校で9月まで消防の基礎を学んでいる。峠に非難した中には父親が消防士という姉妹もいた。その消防士は学校近くの「防災センター」に併設された出張所担当で、予想を超える大津波に同僚とセンター屋上に逃れた。かれきの先に見えた校舎屋上の人影に大声で尋ねた。「子共たちは?」。頭上に両手で「丸」を作るのが見えた。消防士はがれきと化した街で屋上に取り残され、救助に出動できなかった無念さを忘れていない。センターは、非難した多くの住民もろとも天井近くまで沈んだ。同僚3人も津波で犠牲になった。今は幹部となった消防士は「命を大切に」の教訓を後輩に伝えるのが自らの責務と考えている。6月、その幹部が担当する消防訓練を見守る4人の新人消防士がいた。うち、土手さんを含む男性3人は釜石東中出身。学年は違うが、共に津波から生き延びた。三浦準貴さん(26)も同中OBの消防士。震災時は花巻東高校野球部員で、大リーグ・大谷翔平選手と一緒だった。震災時の活動を先輩消防士に聞きたいがためらう。「同僚やみぢかな人を失い、心の傷を負っている人もいる」県消防学校の教官は釜石で津波に遭い、運転する消防車を失った。「資機材を失うな」「救助のロープは緩めるな。亡くなっていても家族の元に戻せ」 一つ一つの教えが教訓と重なり、土手さんはあらためて気を引き締める。「命を守るため、もっと学ばなければ」。猛暑の夏、消防服での訓練にも力が入る。「釜石の奇跡」から8年半近く。この春、社会に出た釜石東中の卒業生を中心に「その後」の人生を追った。(山浦正敬)
朝日新聞2019年8月20日夕刊5面:看護師はUターンを決めた 東日本大震災を受け、青森県を宮城県を結ぶ三陸沿岸道路の整備が急ピッチで進む。6月の夕刻、その高架部分まで続く階段を100人近い小中学生らが上がった。車道脇に整列した児童・生徒の横をトラックや車が行き交う。岩手県釜石市の釜石東中学校と鵜住居小学校による、下校時の津波避難訓練だ。会談は国土交通省が震災後、緊急用に開放している。教師が中学生に声をかけた。「小学生もいる。リーダーシップをとるのは君たちだぞ」三陸沿岸道路の整備を加速させたのは、両校の子どもらが無事避難した「釜石の奇跡」がきっかけだ。直前に市街に避難所まで通じた。震災時に釜石東中1年だった柏崎楓さん(21)は今春、内陸・北上市の県立病院で看護師の仕事を始めた。自動車や半導体関連の工場進出で沸く地域。ようやく借りられたアパート近くを走る東北新幹線の通過音にも慣れてきた。あの日、海に近い学校から国道45号の峠に駆け上がった。3年の姉の繭さん(23)も一緒で、」住宅街が津波にのまれるのを見た。八つ年下の妹の虹さん(14)が祖母の迎えで幼稚園から帰っていた時間帯で、「妹とおばあちゃんはだめかも」と覚悟した。そこに自宅そばの人が現れた。妹と祖母は無事で、すぐ脇を通る三陸沿岸道路の車にいるという。6日前に部分開通した区間で、2人は近所の人の助言で同区間の高架部分に登って助かった。直前までいた自宅は津波にのまれた。3姉妹と祖母は、定員を超える7人が乗った車で三陸沿岸道路を通って避難所へ。ほかの児童・生徒らもダンプカーの荷台などに乗せられ、同じ経路で避難した。宮城・仙台平野でも、海岸線と平行に走る仙台東部道路が防潮堤の役割を果たし、「命の道」として被災地の道路整備が一気に動き出し、約2兆円の巨費が投入さる。全国の高架道にも避難階段などがつけられることになった。
柏崎さんが避難所で書いた作文がある。「涙が出てきた。とても怖かった」と当時の恐怖と不安をつづった。妹は避難した高速道路で泣く自分と祖母を絵に描いた。2人の作品は月刊誌の臨時増刊号で紹介され、その後、作文集「つなみ」(文芸春秋)にまとめられた。反響は大きく、体験を話して欲しいと柏崎さんは神奈川や高知の学校に招かれた。中国・北京でも講演した。先生志願だったが、寒い避難所で体調を崩す高齢者を見て「何もできない」と落ち込み、災害医療に関心を持つ。「教育の『人に関わる』と医療の『人を助ける』の両方できる、と選んだ道が看護師」。姉と同じだった。埼玉県の専門学校に進んで気づいた。被災地の外ではもう震災がほとんど話題にならない。報道も毎年3月11日近くだけ。それなら戻ろうとUターンを決めた。配属先は内陸にある県立の基幹病院だ。看護や災害医療の見識を広め、先々はふるさとのある三陸沿岸で仕事をしたいと誓う。(山浦正敬)*写真は柏崎楓さん
朝日新聞2019年8月21日夕刊5面:言葉は怖いでも語るんだ 岩手県の沿岸を南北に走る三陸鉄道リアス線の鵜住居駅前に立つと、人口の小高い丘が見える。火口のようにくぼむ中央の底に、半円を描く黒く長い壁。そこに約1千人の薄墨の名札が下がる。今春に完成した釜石市の「釜石祈りのパーク」だ。8年半前の東日本大震災の追悼施設で、「防災センター」の跡に市が造った。センターは多くの住民が中に非難した直後に津波にのまれた。「釜石の奇跡」で伝わる釜石東中・鵜住居小学校の跡から駅をはさんで200㍍。パーク横に併設された津波伝承施設が、市の「いのちをつなぐ未来館」だ。菊池のどかさん(24)は今春の開館当初から案内役を務める。震災時は中学3年で、県内の大学を卒業するとともに就職した。パネルや写真などで「釜石の奇跡」や「防災センター」を紹介するコーナーで、自らの被災や防災学習の体験を来館者に語る。あの日の記憶は鮮明だ。校庭外の電話ボックスから自宅に連絡したさなかに震災が起きた。受話器の先の祖父が「うわー」と叫んだ。すぐに足元が揺れ始め、ボックスで体を支えながら直感した。「プレート海溝型の地震だ。津波が来る!」 修学旅行で東京の本所防災館を訪ねたことがあった。震度7の揺れなどを模擬体験した。首都直下地震の活断層型とプレート海溝型の揺れの違いを学んだ。横揺れがだんだん大きくなるのは・・。すぐにその特徴が頭に浮かんだ。訓練通り、校庭の点呼場所を目指した。だが、「上へ走れ!」の先生の声が響き、反転して山側に向かった。避難先に決めていた高齢者施設前でも危険と判断した先生らが叫んだ。「もっと上に」 高校時代、看護師や災害派遣医療チームを目指していた。海から遠い自宅は無事で、避難所の炊き出しを手伝った。そこでの医療チームの活動ぶりに感動した。だが、心的外傷後ストレス障害(PTSD)なのか、突然、具合の悪い人を直視できなくなった。先生になりたいとも思った。大学時代の昨年8月から1ヵ月、釜石東中で教育実習に臨んだ。だが、あの日の先生たちの立場などを考えると、怖くなる。「間違ったことを言うと子どもたちが命を落とすことになる」 そんな時、インターネットで偶然見つけた就職先が「未来館」だった。すぐに応募した。8年半前の自分と同じ中学生を案内することもある。事前の防災学習が役に立ったことを伝えたいが、「自分にはできない」と思わせないよう気を配る。「私だって最初からまじめに取り組んだわけではないの」海から遠い所の大人たちにとって、津波はひとごと。関心を持ってもらうため、世間話などの会話をしながら被災の体験を語る。2歳の娘を育てる若いママでもある。付けた名前は「ことは」だ。由来は「言の葉」から。「ひとつの言葉でたくさんの人が死んでしまうことがる。ちゃんとした言葉を使って欲しい」(山浦正敬)
朝日新聞2019年8月22日夕刊9面:自分の命は自分で守ろう ラグビー・ワールドカップに向けて新設された岩手県釜石市のスタジアム脇に6月、黒御影石の碑が建てられた。「あなたも逃げて」の筆文字が刻まれている。そこは鵜住居小学校の校舎跡で、8年半前の津波が教室を突き抜けた。3階に車が刺さった。女性事務職員が今も行方不明だ。児童らの避難が「釜石の奇跡」と称賛される中、職員の夫は苦しんだ。「なぜ妻だけが残ったのか」。理由は不明だが、跡地に「祈りの場を」と市に要望し、碑が建立された。碑文も提案した。市は夫や自宅で犠牲になった子らに配慮し、「奇跡」を「出来事」と言い換えた。碑そばの説明板にも「奇跡」の文字はない。除幕式の半月前、そばの集会施設に、文部科学省安全教育調査官の森本晋也さん(52)が現れた。シンポジウムの進行役を務めるためで、テーマは震災の教訓を子どもにどう伝えるかだった。元は社会教諭で、震災前に釜石東中で防災教育を始めた。震災後は岩手大学教職大学院准教授などを経て今春、霞が関に移った。学校の防災教育の記録は津波で流失したため、大学院時代に論文としてまとめた。「てんでんこ」の言い伝えを学ぶ。自分の命は自分で守る、だ。記録に残る校区内の津波の最大高さ13.4㍍を校舎外壁に矢印で示し、大きさを実感させる。津波の迫る速さを体感するため、時速36㌔で走る車と競争する・・。震災前に内陸に転勤し、津波の時はいなかった。支援で訪れた遺体安置所で教え子や保護者の名を見つけて涙し、後悔した。「もっと保護者や地域を巻き込む防災教育をやっておけば」 学校の避難も現実は「悲劇」と紙一重だった。訓練時の避難先は学校に近かった。地震で裏山が崩れそうだと高台に移った後、津波に襲われた。さらに背後から迫る津波に国道の峠へ。さっとの判断が重なり合った結果だった。それでも森本さんらの始めた小中合同訓練は生きた。中学生の避難する姿を見て小学生が続いた。生徒が児童の手を引いた。「率先避難者に」「助ける側に」の指導が生徒らに浸透していた。森本さんが進行したシンポの登壇者にかつての同僚・宇夫方朋子さん(41)もいた。震災時から釜石東中に残る唯一の教諭だ。校舎は2年半前、山の中腹を削って再建された。小学校と一体だ。下校時や帰宅後を想定した津波避難訓練は今も合同でやる。小学校にはすでに震災後に生まれた世代がいる。訓練の際に教諭たちが強く言い聞かせる。「あなたたちは危険な地域に住んでいるのよ」シンポで宇夫方さんは「自分たちで自分たちの命を守ったことを語り継ぐことが大切」と訴えた。地域で主体的に防災を学んだ教え子らの姿勢が念頭にある。避難訓練でもかつては誰かが職員室に残る習慣が学校にはあった、と森本さんは言う。震災後は「全職員参加」を説く。「みんなで逃げて」と。(山浦正敬)
朝日新聞2019年8月23日夕刊9面:元副校長が伝えたいこと 穏やかな顔の石仏が約500体、スギの巨木に囲まれた参道脇に並ぶ。岩手県陸前高田市の普門寺にある五百羅漢。東日本大震災の犠牲者を悼むためで、アニメに主人公アンパンマンもいる。地元の県立高田高校の教諭だった女性の母親が「娘が好きだったから」と彫った。女性は今も行方不明だ。近くに1年前に自宅を再建した村上洋子さん(61)は、民泊で受け入れる修学旅行の中学生たちを必ず連れて行く。「別れ際に最も印象に残る場所に挙げる子が多い。『親との思いの深さ』が伝わるみたい」 村上さんは震災時、北方に40㌔離れた釜石市立釜石東中学の副校長だった。校長も鵜住居小学校の校長・副校長も公務なおで不在だった。大きな揺れに生まれて初めて机の下に潜り込んだ。「点呼は後で。担任走れ」まず校庭の角に集合して・・との訓練の手順を飛ばした。津波防災で生徒と共に学んだ「津波到達までの時間」を逆算してのとっさの判断だった。避難先に選んでいた高齢者施設に駆け上がった子どもは約600人。ここまでくれば安心と聞いていたのに、背後のがけでパラパラと小石が落ちる音がする。次は土砂崩れの不安が頭をよぎり、「もっと上に」と指示した。さらに海側から迫る大津波が見えた。あわてて逃げる子どもらの足から脱げた靴を拾いながら峠に急いだ。登った峠で点呼して全員の無事が確かめられた。翌春に転任した先は、南隣の大船渡市の吉浜中学校。過去の津波で高台移転していた地区は、建物被害がほぼなく、「奇跡の集落」と呼ばれた。その歴史と教訓を子どもらは知らない。それでは将来の備えにならない。高台にある中学校の校庭を、海に近いこども園の園児たちの散歩先に開放する。「高い所は楽しい」と幼少時から意識にすり込むのが大事と考えた。定年退職した村上さんは全国で防災教育や被災した学校の再建への道のりを語る。今年も仙台市や大分県などにでかけた。静岡県掛川市の小中学校にも招かれた。説明に使う資料は現地に残す。教訓が拡散されるのを期待する。震災前の自宅は「奇跡の一本松」の近く。昨年6月に再建した先は小山の中腹で、玄関わきに今夏、ヒマワリの種をまいた。8月5日に黄色い花が咲いた。ルーツは1995年の阪神大震災にさかのぼる。犠牲になった女児宅跡に咲いた花の種が追悼の話と一緒に各地に伝わる。東日本大震災の被災地を経由して、新たな輪が広がる。村上さんも学校や自宅跡で育てた交流先に贈る。天災を伝える石碑は全国にある。ただ、無言の碑はいつか風景の一部になり、誰にも気に留めなくなると村上さんは思う。津波常襲の三陸もそうだった。「どうすれば命が助かるのか、いろんな人がさまざまな場面で伝えなければいけない」「命を守る」に、奇跡も、偶然もない。=おわり(山浦正敬)

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