8月17日 社説 8・15戦場の記憶 

朝日新聞2019年8月15日8面:時を超え、痛みを語り継ぐ 74年前のきょう、日本の降伏で戦争が終わった。あの昭和の時代からどれほど時を経ても、参禍を記憶にとどめ、不戦と平和の誓いを語り継ぐ大切さはかわらない。満州事変以降に拡大したアジア太平洋戦争により、日本人の死者は300万人を超えた。無謀な戦争の犠牲となった人々に追悼の念を捧げる日である。そして同時に、忘れてはならないことがある。侵略と植民地支配により、日本以外の国々に及ぼした加害の事実である。大東亜共栄圏を掲げた日本は各地の要所を占領した。現地の人を巻き込み、犠牲を強いた。はるか遠くの島や山あいで、それぞれに刻まれた戦争の記憶と戦後がある。歴史の教訓を学ぶうえで欠かせない。激戦の地で証言や資料を残そうという取り組みがある。パプアニューギニアの首都中心部から東に50㌔。この奥の密林で、日本軍とオーストラリア軍の激しい攻防があった。「ココダ道の戦い」と呼ばれる。現場はいま、観光客に人気の山岳縦走コースだ。近くのソゲリ村のビリー・イバイさん(50)のおじは当時、豪州軍の遺体や傷病兵、銃弾を運ばされた。「戦争を実体験した世代は消えていく。体験は共有できなくとも、気持ちを寄り添わせることはできる」 語られなかった苦悩 豪州が委任統治していたニューブリテン島(現パプアニューギニア)のラバウルを攻めた日本軍は1942年、2千㍍を超す山々を貫くココダ道を進み、豪州軍と衝突した。犠牲者は豪州側が600人以上、日本側が数千人以上とされる。だが、突然、戦場となった現地の人々の恐怖や苦悩はあまり語られてこなかった。75年の節目である2年前、イバイさんら70人超が協力して証言集ができた。昨年末には首都の国立博物館に、証言をビデオで見られる場所もできた。この事業を主導した同館学芸員のグレゴリー・バブリスさん(32)は言う。「私たちニューギニアは単なる戦闘の背景。豪州の歴史書には名前もない『コックの少年』『洗濯女』として登場するだけだった。その声を代弁したいのです」同じような動きは、インド北東部のインパールでもある。
「レッドヒル」。地元の人がそう呼ぶ丘が郊外にある。日本兵らの血で染まったことが由来だ。そのふもとにこの6月、地元の観光協会が、日本財団の協力で平和資料館を開いた。補給が不十分なまま無理な突撃を続けた44年のインパール作戦で死亡した日本兵は、3万人超にもぼる。一方で現地の人が強いられた犠牲をどれだけの日本人が知っているだろうか。館内には鉄かぶとや水筒など日英両軍の遺品だけでなく、巻き込まれた237人の犠牲者名簿も展示されている。
我がことと考える インパールに住むチャンドラ・サキさん(85)は当時を鮮明に覚えている。朝、約10機の日本軍の飛行機が、爆音とともに激しい空襲を始めた。父と一緒に地面に伏せた。何も持たず別の村に逃げ、1年半後に戻ったが家はなく、英軍の拠点となっていた。腹をすかし、村を転々とした。「戦争は家を奪い、命を奪う。この体験を資料館が次世代に伝えて欲しい」と話す。会館前、地元の設立委員の人たちは日本を訪れ、沖縄の南風原文化センターとひめゆり平和祈念資料館を見学した。のどかな町や村など広域が熾烈な戦場となり、故郷が破壊された沖縄。その史実はインパールに通じる、と感じたという。
ひめゆり資料館は今年、開館30周年を迎え、新たな課題に直面している。最近、来館者の感想に「ぴんとこない」との言葉があった。戦争が遠い昔の出来事に思われていると、館長の普天間朝佳さん(59)は言う。99年度に100万人超だった入館者数は18年度は約53万人まで減った。修学旅行も減少傾向にある。その流れを変えたいと、来夏に「さらに、戦争から遠くなった世代に向けて」というテーマでリニューアルする。ひめゆり学徒は沖縄戦で陸軍病院に動員された地元の女学生計222人で、うち123人が戦争で亡くなった。展示の刷新のかぎは「共感」。戦争前の学校生活での笑顔や表情豊かな写真を使い、身近に感じてもらう。中高生らに、学徒が同じ世代で楽しい学校生活があったことを訴えかける。 戦後世代の責任 大切なのは、踏みつけられた人、弱い立場の人の痛みを知ることではないか。自分の国の暗い歴史や他人の苦しみを知り、思いをはせるのは簡単ではない。だが、今の世代が先人らの心情を受け止め、戦争の愚かさを伝え、未来を切り開かねばならない。過去を反省することは後ろ向きの行為ではない。未来に向けての責任である。

 

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