8月14日 強制隔離に抗った医師

東京新聞2019年8月11日5面:ハンセン病患者や元患者、家族に苦難を強いた国の強制隔離政策。医学的見地からその非人道性と闘った人がいました。京都帝国大の小笠原登医師です。小笠原登は、1888(明治11)年、愛知県西部の甚目村(現あま市)の真宗大谷派円周寺に生まれました。祖父の啓実は漢方医でもあり、小笠原は京都帝都大で医学を学びます。1926(大正15)年から大学病院でハンセン病(らい病)治療を担当。38(昭和13)には、ハンセン病患者の診察・研究に当たる皮膚科特別研究室主任となりました。 臨床から「感染力弱い」 感染力が弱く、特効薬で完治するハンセン病ですが、当時は感染力が強く、「不治の病」ともされていました。国は31(昭和6)年、らい予防法(旧法)を制定して、すべての患者を強制的に隔離することを法制化します。患者らは家族との離別を強いられ、診療所への入所後には、本名を捨て改名することを余儀なくなれました。非人間的な扱いをされた患者や元患者だけでなく家族も偏見や差別にさらされます。筆舌に尽くしがたい苦難を、国の誤った政策が与えたのです。小笠原は祖父からの言い伝えや自らの臨床経験を通じて、ハンセン病に関して異なる見解を持ち、治療に当たっていました。強制隔離が法制化された31年には「らいは不治の疾患である」「えあいは遺伝病である」「らいは強烈な伝染病である」という三点を「迷信」だとして、国の強制隔離政策に挑戦するかのような論文を発表します。この年からはハンセン病患者の診断書には「らい性」という病名を抜き、「神経炎」「皮膚炎」などと書いて、患者が隔離されないようにした、といいます。 人権侵害、戦後も続く 京都帝大医学専門部時代に小笠原に師事し、後に旧厚生省医務局長などを歴任した大谷藤郎さんは生前、本紙の取材に「小笠原先生はマスクも手袋も何も着けずに、普通の外来患者と同じにやるんです。当時の国立療養所では、宇宙服みたいなものを着て患者と接していましたから、あれには、びっくりしました」と語っています。強制隔離政策の歴史に詳しく、小笠原が残した日記を分析、研究している敬和学園大(新潟県新発田市)の藤野豊教授は「小笠原は、医学的知見から隔離する必要はない、体質を改善すれば一生(発症を)抑えられる、人生や生活を奪ってまで隔離する病気ではないと考えていた」と話します。感染力が弱い伝染性の疾患であれば、免疫力を高めれば予防、治癒できるのは、今では当然です。しかし、小笠原の学説は学界に受け入れられず。強制隔離政策は継続されます。国の指示で都道府県などによる「無らい県運動」も展開されました。全国で「患者狩り」が行われ、患者は診療所に強制的に収容されていきました。太平洋戦争が終わり、基本的人権の尊重が明記された日本国憲法の施行後も国の隔離政策は変わらず、元患者や家族に対する偏見や差別が続きます。有効な薬が開発され、治療法が確立されてからも強制隔離を正当化するらい予防法が新法として残ったからです。大谷さんは厚生省在官中、入所者の待遇改善に努める一方、らい予防法はそのまま存置していました。ハンセン病は解放され、法律は「死に法」と化したと考えていましたが、退官後、これが間違いだと気付きます。法律が存在する限り、結婚や就職、教育などの差別は残るからです。らい予防法が廃止されたのは96年でした。大谷さんは廃止に尽力し、元患者が隔離政策を憲法違反と訴えた国家賠償請求訴訟では「人間の尊厳を傷つけるらい予防法の制定は誤りだった」と証言しました。非人道的な強制隔離政策と闘った小笠原の姿が、大谷さんの心を動かしたといいます。大谷さんは生前こう語っています。「憲法にはすべての国民が人間らしく生きる権利を持つと書いてあります。健常者も、障害や病気、経済的に困っている人も、互いに人権を認め合い、共に生きる社会を目指さねばなりません」 「共生社会」を目指して 7月の参院選では重い身体障害がある2人が当選しましたが、2人の登院を「迷惑行為」とするインターネット上の投稿が、多くの賛同を得る事態が起きています。偏見や差別の芽は、国の政策だけでなく、私たち自身の中にもあります。それを克服しなければ、互いが人権を尊重し、共に生きる社会はつくれません。学界と対立する孤立無援の中、ハンセン病は治るという信念を貫き、国の隔離政策に抗った医師、小笠原登。その生きざまは、私たちに進むべき道を示しています。

 

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