6月6日 オリンピック道路(東京都)

朝日新聞2019年6月1日be6面:「清水半兵衛」を探して 東京都目黒区は坂が多い街だ。名前が付いた33カ所の坂を完全に網羅したという冊子「坂道ウォーキングのすすめ」を区が発行し、多くの坂に名前の由来や歴史を刻んだ木製の標柱が立っている。「江戸時代、この辺りに清水半兵衛を代々名乗る旧家があったため、半兵衛坂と呼ぶようになった。尚、この道路は昭和15(1940)年の幻の東京オリンピックの際に整備されたので、通称『オリンピック道路』とも呼ばれる」半兵衛坂の標柱に書かれた「この道路」とは、渋谷、世田谷両区を結ぶ野沢通りのこと。タクシー運転手が、渋滞の慢性化した国道246号や駒沢通りを避けて、抜け道に使うような片側1車線の生活道路である。まったく「オリンピック道路」らしくない。落差に引かれて、取材をしようと思った。近辺には「清水」の表札が多く、半兵衛さんの子孫にもすぐ会えるだおるとたかをくくった。考えが甘かった。まずは、標柱を立てた区教育委員会に問い合わせる。「内容については古いものを更新しているだけで、分かる者はいない」区のホームページは「目黒のみち」の一つとしてオリンピック道路を紹介している。この担当部署も「(区発行の)古い『月刊めぐろ』の連載を再掲しているだけで、現在は情報がない」とつれない。
ようやく区立図書館のレファレンスサービスで、手がかりらしきものが見つかった。約50人の区民の証言を集め、1995年に発行された冊子「めぐろの昔を語る」。「私の家の前の通りは大一代目のオリンピック道路です。紀元2600(昭和15)年のオリンピックを目指して、昭和5、6年頃から案が持ち上がり、ボツボツ土地の買い上げの手続きが始まり、昭和8年頃から建設開始となりました。満州事変(蘆溝橋事件?)のあと結局オリンピックは中止になりましたが、道路はでき上がりました」証言者の名は清水恒広さんという恒広さんはすでに鬼籍に入っていた。孫の妻だという女性が教えてくれた。無理もない。存命なら100歳を超えている。代わりに、女性よりは年上の親類の清水さんを紹介してもらった。団塊の世代だという男性の清水さんもまた、地元の歴史に詳しいわけではないようだった。「道路をつくるときに、土地の買収に応じて、敷地がいびつな形になったとは聞いたことがあるけど・・」。半兵衛という祖先にも心当たりがないという。姻戚関係がない別の清水家のインターホンも押した。かなり大きな屋敷だった。玄関で応対してくれた女性は昭和13年生まれだが、五輪に関する記憶はないと言う。「半兵衛さん? たまたま土地が残っただけで、うちはただの農家だったと思いますよ」坂道をとぼとぼと上がったり下りたり。オリンピックだけでなく、標柱の表記も幻のように思えてくる。
平和の祭典、2年で幻に 日本のオリンピック史をたどるNHK大河ドラマ「いだてん」。5月26日の放送回では、主人公である日本マラソンの父・金栗四三が、1920年のベルギー・アントワープ五輪に出場した。史実では3年後に関東大震災が起きる。この時の東京市長が永田秀次郎で、後に復興を成し遂げた「帝都」に、神武天皇が即位したとされる年から数えた皇紀2600年の記念行事として五輪招致を発案する。「いだてん」では、永田役としてイッセー尾形さんの出演が発表されており、震災と幻の五輪についても、これから描かれるはずだ。開催都市立候補から返上までの経緯は「第12回オリンピック東京大会東京市報告書」(39年)に詳しい。正式な立候補表明は32年7月、米ロサンゼルスで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会。永田からメッセージを託されて総会に臨んだのが、「いだでん」で役所広司さんが演じている東洋初のIOC委員、加納治五郎だ。
ローマが有力なライバルだったものの、イタリア首相ムソリーニとの交渉の結果、候補地から辞退。開催地を決めたIOC総会は、36年7月、ドイツ・ベルリン大会にあわせて開かれたが、対日接近に熱心だったヒトラーの力添えがあったとも言われている。第2次世界大戦前夜の国際政治情勢がアジア初の五輪開催決定につながった。東京では二・二六事件による戒厳令が解かれた直後にもたらされた明るいニュースだった。3日間連続花火が打ち上げられるなど、祝賀ムードに包まれた。日本は泥沼の日中戦争に突入する。東京大会ボイコットの声が上がるなど国際社会からの批判が強まるなか、政府は各種の資源統制が必要だとして、38年7月の閣議において東京大会の返上を決定した。東京五輪が幻ではなかった期間はわずか2年。完成にこぎつけた施設は、芝浦自転車競技場や埼玉県戸田市の戸田漕艇競技場くらいだ。メイン会場の候補地は二転三転し、東京湾の月島埋立地から明治神宮外苑を経て、最終的に世田谷区の駒沢ゴルフ場に総合競技場や選手村を整備することが決まったのは、大会返上の直前だった。野沢通りには、高台を切り開いた切り通し部分がある。その上に架かる鴻巣橋の銘板には、「昭和13(38)年3月成」とある。奇妙だ。メイン会場が決まる前に、駒沢へのアクセス路の建設が進んでいたことになってしまう。
都市・建築の視点から、二つの東京五輪を読み解いた『オリンピック・シティ東京1940・1964』の著者である片木篤・名古屋大大学院教授(65)の話を聞いて、謎が解けた気になった。総合競技場用地として白羽の矢が立った駒沢ゴルフ場は、日本の都市計画史上初の大都市圏計画といわれる東京緑地計画(32~39年)にも組み込まれており、東京市が以前から運動公園として整備することを検討していた。さらに世田谷区に入ると、沿道周辺には関東大震災後、五島慶太率いる東京横浜電鉄(現・東急電鉄)の誘致で、東京学芸大学の前身である青山師範学校など、多くの学校が都心から移転してきた。
「野沢通りの計画と建設は五輪主会場の決定以前になされていた」と片木教授。実情は「オリンピック道路」ではなく、「師範学校道路」だったのだろうか。再び半兵衛坂。清水半兵衛の捜索にも疲れて、坂道を下りた先にある蛇崩交差点に面した橋本酒店に立ち寄る。3代目店主の橋本孝之さん(53)に聞けば、店は34年創業で、ホームページでは、「蛇崩写真館」のタイトルで古い写真を公開しているという。地元の歴史に関心を持つ人物に行き当たり、期待は膨らんだ。しかしー。「オリンピック道路? 地元では誰もそんな呼び方はしないと思うよ。それどころか、昔は野沢通りとも言っていなかった。名前のない道路なんていくらでもあるよね?」 文・坂本哲史 写真・嶋田達也

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