6月16日 恋愛の芯 田辺聖子に救われた

朝日新聞2019年6月11日31面:作家・川上弘美が悼む(寄稿) 諧謔の中にせつない生々流転 恋愛というものの芯について知ったのは、自分の実際の恋愛からではなく、田辺聖子の小説からであったような気がする。人は、恋をする。けれど恋愛のさなかにいる時には、恋愛のことはわからない。自身の恋愛についてわるかのは、恋愛が終わった時だ。ところが終わってしまえばすでに恋愛の姿は消えてしまっていて、その姿をふりかえってつかむことは、とても難しいことなのだ。そんな時、わたしはいつも田辺聖子を読んできた。恋愛って、いった何だったんだろうな、ということを考えるために。
田辺聖子の小説は、たいへんに平明な言葉で書かれる。語り手は決して肩を怒らせず、きれいにみひらいてこの世界を見ている。恋愛のさなかにいても、彼女ら彼らはまず生きていること自体をおもしろがり、愉しむ。諧謔の心にあふれ、会話のはこびはまことに生き生きとしている。こんなふうに書くと、田辺聖子の小説をまだ読んだことのない読者は、「楽しさにあふれた小説なのだな」と感じるかもしれない。ところが、田辺聖子の凄いところは、楽しさや面白さの中に、なんともいえない怖ろしさがあるところなのだ。たとえば、ある小説の中には、一人の男を愛している女がいる。男も女を愛している。愛はすべてを豊かにする。仕事も、もちろん体を重ねることも、すべては愛のもとで、その輝かしさが永遠に続くことは、決してないのだ。美しかったもは爛熟し、爛熟したものは異なるものへと変化し、何ごともとどまることはできない。外圧からではなく、ただ時が流れたというそのことだけによって、二人のいた場所は崩れてゆく。
無常である。そうだ、田辺聖子は、無常を書く小説家なのだ。むろんわたしたち小説家は、誰もが無常を描く。けれど、田辺聖子ほど犀利に無常を描く作家を、わたしは知らない。「ユーモアあふれる」「大衆的な」「優しい」というような形容をされる田辺聖子は、たしかにその通りの小説を書くのだけれど、そのわかりやすくまた飄々とした中に、こんなにもせつない生々流転のことわりがあるといところに、驚いてしまうのだ。恋愛というものを田辺聖子に教わった、と、最初に書いた。それはつまり、生きるということを田辺聖子に教わった、といことにほかならない。恋愛というものは独立したおこないではない。生きているということの中にある、さまざまなおこないの中の、重要だけれどごくささやかな一部分である。そこにつながっているのは、膨大な、恋愛以外の時間であり、恋愛について書くということも、そこにつながっている膨大な恋愛以外の時間を同時に感じさせるということである。まことに小説というものは書きがたくとらえがたいものだとため息をついてしまうが、田辺聖子を読んでいる最中には、そのようなため息はまったく不必要だ。ただ享受して、感じて、そしてページを閉じた後に残る何かを反芻すればいい。田辺聖子の新しい小説を、もちろん望んでいたけれど、これまでに書かれた彼女の小説を繰り返し読むだけでも充分なのだと、その死を深く悼にながらも、思う。なぜならそこにある膨大な時間を汲みつくすことは、まだまだわたしにはできていないのだから。

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