5月29日 「光州事件」のみち(韓国・光州)

朝日新聞2019年5月25日be6面:民主化求めタクシーも行進 韓国・南西部の光州。ある春の朝、私は白壁の旧全羅南道庁舎を背に目抜き通りの錦南路と向き合っていた。まっすぐ延びる車線。ひっきりなしに走る車が、こちらに突進してくる感覚に陥る。あぁ、ここだ。手元のスマートホォンに、保存していた1980年5月24日付の朝日新聞国際面を映し出した。「流血の光州を行く」の見出しに、タクシーと走る何台ものバスや、バスの上で両腕を上げる人の写真。隣の写真には銃を背負い、こん棒を握りしめた兵士がずらり。写真部の故・青井捷夫記者が撮った。光州では39年前の今ごろ、後の大統領、全斗煥氏の下で全土の広がった戒厳令下、学生や市民が民主化を求めて立ち上がり、軍隊に抑え込まれた。「5.18民衆抗争」。日本でいう「光州事件」だ。錦南路沿いにある「5.18民主化運動記録館」によると、死者・行方不明者は300人以上に上る。厳しい検閲で韓国の新聞やテレビはほぼ、「暴徒化した学生や市民の内乱」とする軍の発表をそのまま報じた。冷戦下、軍事政権にあらがうと「北朝鮮のスパイ」とされた。そんな中、社会部の故・斎藤忠臣記者と青井記者は現地に入った。日曜版(今の「be」)の取材でちょうど韓国内を巡っていたところだった。光州のきな臭さを察知した、当時の藤高明ソウル支局長(85)の連絡を受けて急行したのだ。
青井記者のレンズの向こうにいた人々に会いに行った。デモに加わった車列の先頭集団をひきいた張訓明さん(65)、後方を守った趙誠洙さん(65)と、球場「光州起亜チャンピオンズフィールド」前で落ち合った。当時は客待ちのタクシーがよく止まっていたここから行進は始まった。「昔は政治に関心がなかったし、営業の妨げにもなるデモをよく思っていなかった」と張さん。でも若者が殴られるのを目にし、タクシーに乗せて逃がすようになった。新聞やテレビは一向に報じない。張さんはバスで市外から来る人をつかまえては惨状を伝え、「抗争」2日目の5月19日夕、仲間に呼びかけた。「営業している場合じゃない。車で軍隊を押し返そう」装甲車がそこかしこにいて正直、怖くもあった。大型車もあった方がー。20日夕、まずは数十台でゆっくり走りながらバス運転手に呼びかけた。膨らむ車列。クラクションを鳴らし、ヘッドライトやハザードランプもつけた。錦南路で左折すると、学生たちは「民主政府樹立!」と叫びアリランを合唱し、軍隊とにらみ合っていた。その一人、全南大学3年だった李在儀さん(63)は、クラクションの音に振り向いた時の感激を今も思い出す。「運転手さんたちも応援に来てくれた!」。拍手し、車列を先導した。兵士がこん棒を振るい催涙弾を浴びせ始めたのはまもなくだ。車窓が割られ、運転手は引きずり出された。張さんも「ものすごく殴られ、ガラスの破片が体に刺さった。白い服が血で染まった」。必死で車によじ登り、屋根を伝って後ろへ。光州駅近くの旅館へ逃げ込み、寝込んだという。現役運転手の趙さんのタクシーで当時の道を走ってもらった。錦南路へ差しかかり、後部座席の張さんは遠い目をした。「殴られたのはまだいい方。捕まり、拷問でもっと大変な目に遭った人もいる。私がたきつけたせいでは、と自責の念にかられる」この行進はしかし、「真実を伝えねば」との人々の思いにも火をつけることになる。
 検閲打ち破ったガリ版刷り タクシーがデモを始めた20日夕、出発点近くのれんが造りの建物では、17歳の羅明官さん(56)がインクまみれになっていた。労働者と学生が学ぶ「野火夜学」の教室。ガリ版印刷機に紙を置き、インクを乗せ、ローラーを転がし続けた。後に「闘士会報」と呼ばれる市民新聞だ。中学卒業後に研磨工として働きながら、「学びたい」と夜学に通っていた羅さん。19日ごろからみんなで書いた記事を刷り、ひそかに配り始めた。「市民は情報に飢えていましたから」20日夕、錦南路にいた仲間からの電話が鳴った。「タクシーやバスが行進している!」。羅さんらは万歳をし、その記事を何時間もかけて、「指紋がすり減るくらい」何千枚もの紙に刷った。翌21日の朝、昼、夜と、人が集まる市場などで配った。受け取った人たちは口々に「これは本当か」。羅さんがその場で説明すると多くが目を見開き、食い入るように読んだという。職業記者も手をこまねいていたわけではなかった。21日の昼過ぎ、全南毎日新聞の写真記者だった羅庚澤さん(70)は、同庁前のビルからカメラを構えていた。社には19日に辞表をたたきつけていた。撮っても撮っても検閲で載らず、同僚記者とこっそり新聞を出そうとしても、幹部に阻まれたためだ。それでも取材は続けた。昼過ぎに錦南路を見下ろすと、増える市民や学生に押されるように兵士が後ずさりし、ビルに近づいた。危険を感じて外に出ると、兵士のただ中にいる格好に。「発砲命令はどうなった」「おりました」兵士の声が聞こえ、銃声が響いた。驚いて同庁に逃げ込み、他の記者たちと屋上へ。望遠レンズを向けたビルの窓から顔を出した人が撃たれて落ちるのが見えた。錦南路は多くの人々がうずくまり、血だけに。羅庚澤さんはシャッターを切り続けた。この時のフィルムは自宅の天井に隠した。軍幹部が押収しようとしたが、別のフィルムを差しだし、死守。後に写真展や写真集で発表した。斎藤記者と青井記者も、21日も錦南路で取材した。斎藤記者が残したメモによると、午後には学生も銃を手にし始めた。自衛のための武装と映った、とある。銃撃戦となり、目の前で若い男性が胸を押えて倒れたという。斎藤記者は、学生や市民が担ぎ込まれた全南大学病院で取材し、若い医師に言われた。「この惨状を日本に、世界に伝えてくれ」「危険だ」と止める宿泊先の旅館の主人を振り切り、青い記者と23日朝、光州を発った。検問をかわし、険しい山道を歩くこと約3時間、小型トラックを持つ農家を見つけて頼み込んだ。農家の男性が全力で飛ばしてくれて、朝日新聞ソウル支局へ。盗聴のせいか通話がしばしば途切れる中、斎藤記者は東京本社に電話口から原稿を読み上げた。青井記者はAPつ真ソウル支局から米国経由で写真を送稿。24日付の朝日新聞1面、国際面はそうして作られた。この紙面は留学生などが韓国に持ち込み、民主化運動家たちを力づけたそうだ。朝日の記事は「5.18民主化運動記録館」に展示されている。ガリ版の「闘士会報」は国内の報道の空白を埋めるように刷られ続け、羅明官さんも取材に出るように。「歴史を記録するのではなく今、伝えて」と願う人が配布役を買って出るようにもなったという。「闘士会報がめざしたのは真実を伝える役割。今は自由に報道できるが、当時について事実でない記事も出る。役割を果たしてほしい」。羅明官さんの言葉を胸に帰国した。

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