4日 又吉直樹のいつか見る風景

朝日新聞2017年7月1日be4面:なにも書けない孤独な夜を いつか誰かが乗り越えてゆく 旧江戸川乱歩邸(東京都豊島区) 一人で机の前に座り、朝までなにかを書かなければならないこという状況を何度も経験したことがある。孤独で不安になることもあれば、これから自分だけの夜が始まるのだと、わくわくすることもある。必ず成功するとは限らない。書けない夜もあるから、毎晩、綱渡りをしているようなものだ。
すでに読んだことのある漫画の1巻を読み始めてしまい、結局は2巻、3巻と続きを読んでいるうちに朝を迎えて後悔したこともあれば、妙に感覚が研ぎ澄まされ、「30分もあれば充分だ。今夜の自分は最強で、もの凄いものが書けるぞ」と全能感に支配されたがために、まずは少しだけテレビでも観ようと余裕をかましてしまい、徐々に眠たくなり、まだ朝までは時間があるにもかかわらず、先ほどまでの自信は消え失せて、「もう今夜は絶対になにも思いつかない」という取り返しのつかない状態に陥ったこともある。
その癖、どこかで帳尻は合わせる。そんな危機が迫った夜はどこにもなかったような顔をして平然と暮らしている。でもこれは特別なことではなくて、誰の人生にだってあるのではないかと思う。
奇妙な感覚 芸人になるために通った養成所時代、ネタを講師に見せる授業が毎週あった。僕は他のコンビよりも高い頻度で新しいネタを発表するようにしていた。
「なんでそんなに新ネタが作れるのか?」と同期から質問されると、僕は必ず、とぼけた表情を作り「わからんけど、夜中一人で散歩してたら自然に思いつくというか…」などと答えていた。もしかしたら、そんな奇跡の夜も一度や二度はあったかもしれないけれど、それはほとんど嘘だった。誰かを騙すために嘘を言っている自覚などはなかったけど、強がっていたことはたしかだ。
実際には、毎晩泣きそうになりながらノートに向かい、なにも思いついていないのに右手のシャーペンだけは離さずに握り続けた。そうやって、朝まで起きてどうにかこうにかネタを完成させていた。授業で新ネタを発表するコンビは、どことなく夜を引きずった気配がある。そして、直接には会話せずとも、お互いに「そっちも作ってきたんやね」と同じような時間を経たことによってなにか分かり合えたような気がする。それは、まったく友情などではなくて、嫉妬でもない、奇妙な感覚だった。
 夢こそまこと 僕に質問した同期は、「散歩していたら思いつく」と言われて、不安になっただろうか。それとも睡眠不足まる出しの不健康な顔を見て嘘だと気付いていただろうか。
自分の強がりによって、才能ある人の心を挫けさせていたら申し訳ないなと思いはするが、今さらどうすることもできない。少なくとも、質問してきた彼も、他の同期達も僕と同じような夜を過ごしたことがあっただろう。
そんな夜に、ふと自分の部屋の本棚を眺めると頼もしく感じることがある。誰かが夜を乗り越えて作品を完成させた証拠が並んでいりことが心強い。時代も国も境遇もまったく異なる多種多様な物語がそこにはあって、それらの背表紙を目で追っていると、どこにでもいけるような、なにをやってもいいような自由が感じられる。それは、かつて養成所の同期達に対して感じたなにかを共有できているような得体のしれない感覚とよく似ている。
先日、江戸川乱歩邸を訪れた。趣のある家だ。乱歩が書庫として使った土蔵の本棚には、あらゆる種類の本が並んでいる。江戸時代の和綴じの本、中国の古い物語集、近代の日本の小説、欧米の小説、歴史や土地に関する資料まで幅広い書物が丁寧に整理されている。その本棚を眺めると、原稿に向かう乱歩の姿が容易に想像できた。乱歩は、この本を入口としてどこの時代のどこの街にでも行けたのではないか。そして、僕も自分の部屋の本棚にある乱歩全集を入口として、ここに来たことがあるような気がした。
「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」という幻想的な乱歩の言葉も、ここでは妙に生々しく響き、自分の体に浸透してくる。(芥川作家・お笑い芸人)

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