14日 事実隠す「玉砕」

朝日新聞2017年8月11日27面:戦後72年夏 戦死と向き合う【1】「生死の境 地獄そのもの」 戦争中、全滅を意味する「玉砕」という言葉が使われた。人命を宝石にたとえた表現は、戦死のむごさから国民の目をそらし、泥沼化を招く一因にもなった。不都合な事実をごまかす美辞に、元兵士や遺族は厳しい目を向ける。
サイパン島で米軍と戦った岡崎輝城さん(98)=香川県坂出市=は今年6月も現地を訪れた。40回を超える慰霊の旅。悪夢のような記憶がよみがえる。1944年6月、岡崎さんは地面を掘った陣地の中にいた。猛烈な艦砲射撃に身をこわばらせた。隣にいた戦友が肩にもられかかってきた。「暑いから寄るな」。目をやると、頭を吹き飛ばされていた。あふれる血が岡崎さんの軍服を染めた。
約300人いた部隊は30人ほどに減り、強力な銃砲も破壊された。それでも上官らは降参を口にしなかった。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓により、死ぬまで戦うよう徹底されていた。サイパンには日本の民間人もいた。銃を構える岡崎さんの前に幼い女の子を連れた女性が倒れこみ、「兵隊さん、後は頼みます」と言って息絶えた。「おかあゃん、おきて!」。絶叫は今も耳から離れない。
やがて岡崎さんは迫撃砲弾の破片を浴びて気を失っい、米軍の捕虜になった。肩や腰に食い込んだ金属を取り出す手術をハワイで受け、戦後になって日本へ。部隊では13人が生きて帰った。今も健在なのは岡崎さんだけだ。
「玉砕」と呼ばれた戦いに、岡崎さんはこんな思いを抱く。「人間の悲劇をきれいな言葉で語っている。生死の境をさまようのは地獄そのものなんですよ」
大本営発表まで「玉砕」という言葉が初めて使われたのは、43年5月のアリューシャン列島・アッツ島での敗戦だ。そのころ退却は「転進」、戦死は「散華」と言い換えられた。山崎保代隊長らアッツ島守備隊約2600人は、米軍の猛攻を受けた。求めていた兵士や弾薬の補充もまいまま、残った約150人で突撃し、全滅した。
大本営の「玉砕」という表現に新聞やラジオも同調した。アッツ島をテーマにした絵画や誌が作られ、国民の戦意をあおられた。朝日新聞社が作った「アッツ島決戦勇士顕彰国民歌」も、《一兵の援 一弾の補給を乞はず》
《敵主力へと玉砕す》とたたえた。
山崎体調の次女、花岡正子さん(84)=横浜市旭区=は当時9歳。父の悲報を伝えるラジオを聞き、家のミシン台の陰に隠れ泣いていた。次々に訪れる忌問客に涙を見せられなかった。父は「軍神」として祭られ、各地の追悼行事で遺族は丁重に扱われた。
戦後、そんな生活は一変する。世間は「軍神」への関心を失い、恩給が滞って家計は行き詰まった。花岡さんは、氷菓子や足袋を売って学費を稼ぎながら学校に通った。花岡さんの知る父は優しかった。出張のみやげにあんパンを買ってくれた。雪の夜には、行方不明になった部下の捜索を外で立ったまま見守っていたと聞いた。そんな部下思いの父が援軍を求めなかったという美談には、首をかしげる。
「きっと戦意高揚のために利用されたんでしょうね」夏、現地への訪問団に加わった。髪に白いものが交じる遺児ら約40人が慰霊碑の前で「ふるさと」を合唱し、「お父さーん「と叫んだ。嗚咽が広がった。
矢敷さんは毎年5月に靖国神社で営まれる慰霊祭に通うようになった。社殿でそっと頭を下げると、父親に会える気がした。戦争を繰り返したくないとの思いから、50年には地元の「九条の会」に参加。護憲を訴える看板を立てるなどの活動を続けるうち、「玉砕」という言葉に抵抗を感じ始めた。父を奪った無謀な戦いを美化しているだけではないか、と。
矢敷さんは、集団的自衛権の行使を認めた安全保障法制や、今年7月に施工された「共謀罪」法に反対してきた。政権はそれらを「平和安全法」「テロ等準備罪」と呼ぶ。「実態よりきれいに見せようとする態度は、大本営と似ているんじゃないか」。そんな疑念をぬぐえないでいる。(岩崎生之助)
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緊迫した状況にさらされた南スーダンPKO。安倍晋三首相が改正に照準を絞った憲法9条。日本の平和主義は岐路にある。戦後72年。戦争がもたらした様々な「死」のありようから、いまと未来を考えてみたい。
🔶 玉砕 玉が美しく砕けるように、潔く死ぬことの例え。中国・唐代も史書に記述があり、日本では明治期の軍歌で「玉となりつつ砕けよや」と歌われた。大本営はアッツ島のほか、赤道に近いタラワ島、マキン島の敗戦時にも使用。壊滅状態でも降伏を許さない戦い方はサイパン島、ペリリュー島、硫黄島などでも踏襲され、死傷者を増やした。終戦間際には本土決戦による「一億玉砕」も叫ばれた。

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