13日 平成と天皇 平和を求めて「下」

朝日新聞2017年8月11日3面:沖縄訪問 両陛下の信念 6月23日。天皇、皇后両陛下は皇居・御所で沖縄の方を向いて黙祷を捧げ、サーターアンダギーなどの沖縄両を食べた。島民を巻き込んだ国内最大の地上戦の犠牲者を悼む「沖縄慰霊の日」に、両陛下が続けてきたことこだわりだ。
沖縄については、8月22日んも両陛下は大切にしている。1944年のこの日、沖縄から本土に向かった学童疎開船「対馬丸」が撃沈され、約1500人が犠牲になった。両陛下は皇太子ご夫妻時代から欠かさずに黙祷し、犠牲者を悼んでいる。この事件から70年になる2014年6月、両陛下は那覇市の対馬丸記念館を初めて訪れ、生存者や遺族と対面した。犠牲者の多くは陛下と同世代。訪問はかねての念願だった。
慰霊の歩み歓迎徐々に だが、両陛下の懇談に招かねながら、参加を断った人たちもいた。沖縄には皇室に対する複雑な感情が残る。戦時中に皇室を崇拝させる「皇民化教育」が進められた結果、志願して戦場に動員されたり、捕虜になることを避けて集団自決させられたりして多くの若者や子どもたちの命が失われたーとの思いからだ。
引率教師として船上していた那覇市の糸数裕子さん(92)も出席しなかった。大勢の教え子が「先生、助けて」と叫びながら死んでいった。「自分だけが生き残ってしまったという罪悪感は消えることはない」一方、両陛下が遠方まで慰霊に訪れたことはありがたく受けとめた。感謝の気持ちを込め、手編みのレース3枚を記念館に託した。1枚は両陛下が慰霊に訪れた「小桜の塔」の供花台に、2枚は同館の両陛下の休憩室のサイドテーブルに敷かれた。
このうちの1枚が両陛下の意向を受けて皇居・御所に届けられ、飾られたことを後に知った。両陛下の沖縄訪問はこの時で10回目。初訪問した1975年には過激派から火炎瓶が飛んだ。それから9回にわたり沖縄を訪問するなかで、県民がTシャツ姿で歓迎する姿が見られるようになった。元知事の故・太田昌秀さんは生前、「昭和天皇が果たせなかった慰霊を、親子2代で成し遂げようとされているので」と語った。
どこを訪問 公平性課題 私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ました」。昨年8月、天皇陛下は退位の意向をにじませるおことばのなかで、象徴天皇としての自らの歩みを振り返った。
だが、天皇が率先して慰霊に赴くことには異論もあがる。宮内庁関係者によると、昭和天皇の時代には「個々の戦地には行かない」ちいう共通認識があったという。昭和天皇の戦争責任を問う声があったほか、どの戦地に行ったとしても、訪れない地が生まれては公平性が保てないためだ。
天皇の戦没者慰霊を研究する一橋大の吉田裕教授(日本近代政治史)は「天皇が訪れたサイパン、パラオ以外にも、激戦地となった場所はある。政治的・社会的力学の制約を受ける可能性もあり、どうしても不公平が生じる」と話す。天皇陛下は即位後の会見(89年8月)で中国と韓国の訪問について「機会があれば理解と親善関係の増進に努めたい」などと述べたが、92年に中国訪問を果たした一方、韓国は訪問できていない。
吉田教授はさらに、国民の象徴としての慰霊なのに「行き先が決まるプロセスが国民に向けてつまびらかにされることもない」と指摘する。「天皇1人に慰霊を任せきりにして国民一人ひとりがその意味を真摯に問うていないのでは」との疑問も投げかける。その天皇陛下がほどなく退位する。「慰霊」はどう継承されるのか。皇太子さまは戦後70年を迎えた2015年の会見でこう述べた。「戦争の記憶が薄れようとしている今日、謙虚に過去を振り返るとともに、戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切であると考えています」(中田絢子、島康彦)
*写真は学童疎開船「対馬丸」の生存者や遺族と懇談する天皇、皇后両陛下=2014年6月、那覇市の対馬丸記念館

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