12月4日 関門海峡 船の道(山口、福岡県)

朝日新聞2019年11月30日be6面:機雷2千発 戦いの爪痕 本州と九州を結ぶ関門橋のたもと、壇ノ浦に面する「みもすそ川公園」(山口県下関市)。この日は秋晴れ。時折風が吹き、海峡の水面には穏やかな輝きが広がる。日本人はもちろん、海外からの観光客が盛んに写真を撮っていた。人気なのは、にらみ合う二つの武者象だ。船から船へと身軽に飛び移る「八艘飛び」の源義経と、歌舞伎の名場面さながらに碇を担いで海に身を投じようとする平知盛。平家一門は1185年3月24日、壇ノ浦の戦いで義経率いる源氏に敗れ、滅亡した。海峡の歴史には戦いの影がつきまとう。太平洋戦争末期には船の墓場と化した。1945年3月、沖縄に上陸した米軍は、日本の海上交通を断って兵糧攻めにする「飢餓作戦」を決行。海上自衛隊下関基地によると、終戦までに機雷約1万1千発が国内の主要港湾や海峡に敷設された。このうちほぼ半数の約4990発が関門海峡にばらまかれた。本州と九州だけでなく、日本と朝鮮半島や中国大陸を結ぶ補給路として、最も重要な「海の道」だったからだ。海峡は沈没船であふれ、至るところにマストが突きだしていたという。同年5月には15日間にわって海峡が禁止されたのが、沈没船に阻まれて機雷除去は進まず、米軍の狙い通り海峡は機能不全に陥った。終戦までに113隻が触雷したとみられる。当時の被害を記録した写真類は、日本側にはほとんで残っていない。要塞地帯に指定され、軍事機密を侵すとして現代のように気軽に撮ることなどできなかったからだ。そんな中、ひそかにシャッターを切った人がいた。下関市内でカメラ店を営んでいた上垣内茂夫さん(故人)だ。同年6.7月の空襲で焼け野原になった直後の市中心部を撮影。「憲兵に見つかれば連行されるのに。命がけで撮影していました」。長女の照子さん(86)は振り返る。上垣内さんは横浜で関東大震災に遭い、その惨状が脳裏を離れず、記録に残すことに使命を感じていたという。照子さんの手元には高台から撮ったとみられる写真18枚が残る。その1枚に関門海峡で触雷したと思われる船も写っている。「父はきっと沈没船まで記録したかったんでしょうね」 海峡の戦後は機雷の掃海から始まった。作業は60年代まで続いたという。10月下旬、高校生向けに開かれた、浚渫船の見学会に参加した。改定の地形図などをシステムに読み込ませ、クレーンの先に取り付けられた「グラブバケット」で、海底の土砂を掘っては、横付けした船へ放出する。一度にすくい上げる量は最大20立方㍍。グラブバケットが海中から姿を現すたび、生徒たちは「おおっ」と感嘆の声を上げた。米軍の資料を見ると、この海域にも機雷が投下されたはずだ。不安を見透かされたのか、担当者が「浚渫工事の前には必ず機雷の有無を調べています」と教えてくれた。爆発物除去の任務を担う海自下関基地隊がこれまでに対応した機雷は330発。がだ、なお2千発ほどが海底に眠っているとみられ、5年前にも機雷を海中で爆破処理した。終戦から74年を経ても、海峡の戦後は続いている。
1日1千隻、大陸航路の要
 関門海峡には、東西およそ50㌔にわたって整備された船の道、関門航路がある。1日に行き交う船は約1千隻。コンテナ船、巨大なビルのような自動車運搬船、「火気厳禁」と書かれたタンカー・・。小さな漁船が一斉に漁を始めると、進路を譲ってもらおうと大型船が汽笛を鳴らし、にぎやかだ。航路幅は最も狭いこところで500㍍ほど。S字に屈曲して見通しが悪く、潮流は最速で時速20㌔前後にもなる。多くの船の航行速度とほぼ同じで、船によっては前に進めなくなるほどの速さだ。かつては岩場や暗礁も点在し、座礁する船が後を絶たなかった。それなのに古から危険を冒してでも船が往来してきた。九州と関西や関東の港を結ぶのはもちろん、中国大陸や朝鮮半島に向かうには、鹿児島を迂回するより距離も日数も短くて済むからだ。国土交通省九州地方整備局の推計によると、日本の港湾から輸出される年間貨物量の13%にあたる3600万㌧が関門海峡を経由する。積み荷の約3割は鋼材や化学薬品だ。輸入も含めると、韓国と行き来する貨物の6割近く、中国も2割超が通る。いつの時代もアジアとの貿易に欠かせない、海の大動脈だ。航行の安全に目を光らせているのが、関門海峡海上交通センター(北九州市)。海上保安庁の組織の一つで、1989年に設置された「海の管制官」だ。航行中の船を表示したモニターや、ライブカメラ、ときにはガラス越しに双眼鏡で海の様子を確認しながら、それぞれの船に日本語や英語で情報提供をする。ただ、どれだけ注意していても事故をゼロにすることは難しい。発足以降の30年間で、ほかの船の航行を制限した大きな事故は11件発生した。分析した原因を踏まえて、追い越し禁止域を設けるといった航行ルールの見直しなどを図り続けている。航路整備事業を支える。1910(明治43)年に国直轄で始まった。明治維新以降、急激な近代化で船が大きくなったことに加え、官営八幡製鉄所の設立や日本の大陸進出もあって、関門海峡の重要性が増していたからだ。江戸時代まで約6㍍だった水深は、浚渫を重ねて現在12㍍に。船舶の大型化などに対応しようと、西側には第2航路も整備された。航路の幅を広げたり真っすぐにしたりする安全対策も進めている。国交省九州地方整備局によると工事後、航路内の事故が年平均で6割近く減ったエリアもあるという。2030年代半ばまでに水深を14㍍まで掘り下げる計画だ。貨物船の積載量は現在の2万㌧から倍の4万㌧にまで増える。これまで海峡を通れなかった船も航行でき、年間約380億円のコスト削減効果が見込まれている。関門航路を体感しようとクルージング船に乗った。航路のうち5㌔ほどの区間を周遊する。門司港レトロ地区(北九州市)を出発し、関門航路に入るとドンドンッという波の衝撃を受けた。水しぶきが降り注ぐ。しょっぱい。波立海面のところどころには渦が巻き、潮の流れが複雑だと分かる。「すごい速さで前後や斜めに動くルームランナーを、風を受けながら走っているようなもの」と、海峡を行く船の操縦の難しさについて説明してくれた海保の幹部の言葉を思い出した。下関側に壇ノ浦の戦いで海に沈んだ安徳天皇をまつる赤間神宮が見え、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘したと伝わる巌流島を一周。すると関門海峡が視界いっぱいに開けた。潮流の激しさも忘れ、揺れに身を任せて寄港した。海岸から夕暮れ時の関門海峡を見渡した。プカリと灰色の生き物が浮かび上がった。クジラやイルカの一種、スナメリだ。何度か浮かんでは潜り、黄金色に染まり始めた波の間を西へと泳いでいった。 文・山田菜の花 写真・金子淳

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