12月20日てんでんこ 奥尻から【4】

朝日新聞2017年12月15日3面:地震後の嵐のような日々。「おたちの気持ちがわかるか」。町民は怒りをぶつけた。 北海道奥尻町の総務課長だった鴈原徹(74)は、1993年7月に起きた北海道南西沖地震後の嵐のような日々を振り返り、こう話す。「精いっぱいやったことですよ」あの夜、6日後に迫る衆院選投開票の準備で残業する部下を励まし、帰宅した直後、激しく家が揺れた。家に帰ろうとした部下は津波に流され、役場で唯一の死者となる。
鴈原は娘2人と母を自宅裏の高台に逃がした。だが、着替えのため自宅へ戻った妻、登志子(66)の姿が見えない。下へ降りて絶句した。自宅建物は残っていたが、津波で壁がぶち抜かれ、家具があたりに散乱していた。登志子は松林の間をすり抜け、2~3キロ沖まで流された。波間からサーチライトを振って奇跡的に救出されたのは2時間半後だ。鴈原は翌朝、山越えして役場に向かった。3日間、家族のもとに帰らなかった。その後も重い決断と緊急対策に苦しむ。
犠牲者は198人。奥尻島に火葬場は1ヵ所しかなく一日に3体しか焼けない。多くの遺体を函館市などへ運ぶことになったが、フェリーでの輸送には限界がある。付き添いの親族は3人までと制限せざるを得なかった。避難者は町民の半数近い2千人に及んだ。国、道、自衛隊との救援の調整、推定200人のメディア対応、宮沢喜一首相、天皇・皇后両陛下の来島・・・。
衆院選で劣勢が伝えられる宮沢に記者が群がった。制しようとしたら、「そんな指示はしてませんよ」。宮沢にあたれれた。仮設住宅は全壊437戸の3割まで、という厚生省(現厚生労働省)の基準にも驚いた。ほかに住めるようなアパートは島にはないのだ。地震の10日後、青苗の避難所で第1次入居者を発表した。体育館は約600人の被災者でぎっしり。床には骨箱まで置かれていた。まず用意できるのは100戸だけだ。高齢者らを優先する。そこまでは納得してくれた。
でも、その後の生活支援の見通しを聞かれ、口ごもると「俺たちの気持ちがわかっているのか」。騒然とした。腹を固めて言った。「私も家を流された」「家族で駐車場の2階で暮らしている」。会場は静まった。「頑張りましょう」と言うと拍手がわいた。繁忙続きで助役まで倒れる中、5年後、町は復興宣言をした。鴈原が文案を練った。その直後、思わぬ事態が起きた。(伊藤智章)

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