12月14日 人生の贈りもの テレビプロデューサー 石井ふく子「5~8」

朝日新聞2019年12月10日35面:会社員に転身ドラマ作りと縁 《新東宝での俳優生活は2年ほどで終える》 正確に合わない俳優業をしたせいか、体調を崩し自宅で静養しました。新聞広告でたまたま「日本電建」の募集をみつけて応募、入社しました。住宅メーカーで、当時は一般的でなかった月賦で販売する方法を積極展開、上り調子でした。新宿・歌舞伎町の営業所に配属されましたが、作家の中野実先生が保証人だった履歴書をみた社長が「変わった人が入ってきたな」と面白がって、本社の宣伝部に回されたのです。《会社務めがプロデューサーになるきっかけとなった》 宣伝部は部長、課長、私の3人。新聞広告からポスターまで宣伝の仕事はすべてやりました。そのうち宣伝の一環で、日本電建提供のラジオドラマをやろうということになって、ラジオ東京(現TBS)と話がついたのです。川口松太郎先生の「人情馬鹿物語」をはじめ、「人情夜話」など夜の15分番組でした。台本を片手にセリフを読む俳優さん、効果音をつくるスタッフ・・。彼らの仕事を見るのが好きになって、スポンサーなのに、ずっとスタジオに張り付いていました。すると、ラジオ局のプロデューサーも「次は何にしましょうか」と相談するようになってくる。私も本が好きなので「これはどうかしら」と提案して、脚色のキャスティング・・。スポンサーというようはドラマ作りの仲間のようになっていたったのです。《そのころ免許をとった》 女性で自動車の免許をとる人は当時珍しかった。一晩収録をした後、夜明けの街を運転するのが大好きでした。女性ドライバーが珍しいからよく冷やかされたものです。最初の愛車はダットサン。俳優さんたちを送っていくのにも役立ちました。80歳で返納したのでもう乗っていません。安心してください。(聞き手・斉藤勝寿) 1926年生まれ。61年にTBS入社。主な製作作品に「渡る世間は鬼ばかり」など。
朝日新聞2019年12月11日26面:日曜劇場の現場と二足のわらじ 《本業は住宅メーカー「日本電建」の宣伝部員。スポンサーとしてかかわるうちにラジオドラマの制作に魅せられていく》 ラジオ東京(現在のTBS)の中でも有名だったようです。スポンサーのくせにスタジオに入り浸って、企画まで口を出す女性がいると。ラジオだけだったラジオ東京も1955年からテレビ放送を始めていました。ある日、ラジオの仕事をしていると、テレビ演出の諏訪博部長(後のTBS社長)らからこんなお誘いを受けたのです。「56年から始めた日曜劇場という毎週のドラマがあるのですが、お願いできませんか」でも、私はテレビを見たことがないし、日本電建の仕事にも責任がある。お断りしたところ、ラジオ東京側が日本電建の平尾善保社長に談判した。平尾社長はこう言ってくださった。「君にテレビの才能があるかもしれないので、両方やりなさい。うちは社員。向こうは嘱託として」。社長の決断が31歳の私の人生を大きく左右しました。この言葉は感謝の気持ちとともに今でも忘れられません。《会社員とプロデューサー。二足のわらじの生活が始まる》 午後5時まで日本電建の仕事をして、夕方からラジオ東京へ。俳優さんは夜にテレビの稽古をするし、本番の放送(当時は生だった)は日曜で日本電建は休みだから、私にとって好都合でした。第1回は58年9月7日、三島由紀夫先生原作の「橋づくし」。忘れられない日になりました。《そのころには結婚したものの長続きはしなかった》 これは忘れたい。普通の人がいいと思って2歳年上のサラリーマンと結婚しました。ひと言でいえば、私は結婚に向いていませんでした。例えば、ある時、カギをあけて家に入ったら、中に人がいて、驚いて叫びました。夫でした。私は子どものころから一人に慣れている。終始だれかが一緒にいるという生活の方が耐えられなくなってしまったのです。(聞き手・斉藤勝寿)
朝日新聞2019年12月12日31面:ドタバタ生放送 勢いとど愛嬌 《ドラマのプロデュースを始めた唱和30年代半ば、収録ではなく、生放送だった》 一番心配なのは時間でした。時間内にきっちり終わるかどうか、終わらないもの困りますが、時間が余った時にはさらに悲惨です。時代劇の「子を取ろう子取ろ」(1959年6月放送)の時は5分余ってエンディングを迎えてしまった。途中なら延ばす手もありますが、エンディングではもう無理。とにかく俳優さんと子役たちに「駆けろー」。5分も駆け続けて、みんなへとへとになりました。人生で最も長い5分でした。《セリフを忘れてしまう人も》「華やぐいのち」(同3月放送)の時は、名優の乙羽信子さんがセリフに詰まってしまった。乙羽さんは困ってしまって、相手役の木村功さんに振るのですが、木村さんはその時にセリフがない。立ったり、窓の方へ寄ったり、乙羽さんがきっかけをつかむまでつないでいただいた。《小道具のトラブルも》 密書を持った隠密が悪者に切られる時代劇のシーンで、隠密は密書を奪われないように懐から出してぱっと投げる。ところが、隠密役の俳優の懐に密書を入れるのを忘れてしまった。どうしたかというと、その俳優の懐にたまたま、その日のギャラの封筒があった。それを放り投げて、事なきを得たのです。また、お犬様の時代のドラマで、動物プロダクションに犬をお願いしたところ、江戸時代の話しなのにスピッツがきてしまったことも。時代考証がめちゃくちゃですが、取り換える時間はありません。とりあえず「スピッツ様」には丸刈りになってもらいました。ほかにも衣装を間違えたり、年号を出す順番を間違えたり。生本番のトラブルをあげると切りがありません。半面、くよくよ考えず勢いで一気にやれた。短時間でトラブルを解決するすべも学ぶことができました。間違ってもご愛嬌の時代で、今と違って視聴者も寛容でしたね。(聞き手・斉藤勝寿)
朝日新聞2019年12月13日31面:山本富士子さんに出演直談判 住宅メーカーの会社員をしながら、テレビ局の嘱託プロデューサーを3年ほどこなしてきましたが、さすがに荷が重くなってきた。それにテレビの仕事の方がだんだん忙しく面白くなってきた。1961年、日本電建を辞め、TBSに正式に入社しました。《担当した東芝日曜劇場はTBSの看板番組に成長する》 テレビ局がドラマを始めるにあたって問題は俳優さんでした。大手映画会社は専属俳優の引き抜きを防止するための協定を結んでいることもあって、テレビにはなかなか出してくれません。だから、歌舞伎、新派、新劇など舞台俳優の方々に声をかけました。出演していただいた俳優さんの中で、忘れられない方の一人が山本富士子さんです。富士子さんは大映の専属スターでしたが、フリーになったため、仕事ができなくなってしまった。今で言う「干されて」しまっていたのです。私は単純に「あんな素晴らしい俳優さんが仕事をしないなんて、もったいない」と考えたのです。《それで出演を直談判した》 やりとりを再現しますと。石井「テレビをおやりになりませんか」 山本「私が出るとテレビ局と石井さんに迷惑がかかります」 石井「テレビは新しい世界なので、ご心配は無用です」ご主人も富士子さんのお母様も説得して出演にこぎつけました。《出演作は「明治の女」。63年7月、日曜劇場での放送だった。山本は自伝『いのち燃やして』の中で、視聴者の応援に感激して、もう一度女優をやっていく決意を固くしたとつづる》 私はどうしても映画より美しく撮りたかった。スタッフと同じ気持ちだった。富士子さんが縁側に立つシーンでのこと。ひさしの陰で顔がどうしても暗くなってしまう。すると照明係が床に寝て、下からライトを当てたのです。これには富士子さんも感激してくださったテレビ局の意地と心意気を見せたのです。(聞き手・斉藤勝寿)

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