12月13日 耕論 国民感情と言うけれど

朝日新聞2019年12月11日13面:国内外の対立で「国民感情」 という言葉を耳にするようになった。今夏の国際芸術祭あいちトリエンナーレでも政治家の発言がきっかけで話題に。その「国民」にあなたはいますか。 誰の思いかわからない 小田原のどかさん 彫刻家 1985年生まれ。創作活動とともに日本の彫刻の歴史研究も。編著に「彫刻1 空白の時代、戦時の彫刻」など。 「あいちトリエンナーレ」(あいトリ)で、企画展「表現の不自由展・その後」が中止になったことは記憶に新しいでしょう。あいトリに出品していた作家の一人の作家として、企画展中止後に集会を開き、ヒアリングをしました。芸術祭を支える市民ボランティアの率直な受け止めを聞いてみたいと思ったからです。「友人にボランティアをしているといいずらくなった」「前回は宣伝の意味で(トリエンナーレのロゴ入り)Tシャツを着ていたのに、この騒動で着にくい」。何が問題かわらないという声とともに、そんな戸惑いの意見も寄せられました。芸術祭を支える市民の葛藤を目の当たりにするようでした。一時中止された企画展で抗議が殺到したのは、慰安婦を題材にした「少女像」、昭和天皇の肖像を使った作品です。いずれも歴史認識に関っています。河村たかし・名古屋市長が反発し、市が発表した声明で「国民感情を害する」と批判されていました。「国民感情」という曖昧模糊とした言葉によって、市民が素朴にあいトリを盛り上げたり、応援したりすることを難しくさせられたと感じます。「国民感情」という言葉で、過去の出来事をめぐる対話の機会が、分断と委縮へと後退してしまったのです。ただアートと歴史認識が交わる分野の制作現場では、委縮につながりかねないことは以前から起きています。私は長崎の原爆を題材にした作品をつくってきました。助成金申請の面談で「この題材だと、ちょっと・・」と言葉を濁され、暗に承認は難しいという反応をされたことがあります。今回河村氏にとっては、慰安婦問題に対する従来のスタンスを主張しただけのこと。歴史問題について、私自身は「愛国心」や「日本人の誇り」という言葉に身構えてしまいますが、河村市長や作品に反発する人たちを理解不能だとはまったく思いません。歴史修正主義は否定されるべきものではないでしょう。「国民感情」とは不思議な言葉です。国民=私たち、を意味するはずですが、その総体としての感情を誰が決めることができるのか。なのに、その言葉が投入されたことで、ツイッターなどネット上で対話ではなく、罵倒が増長してしまった。委縮にとどまらない問題です。しかも今回政府は、手続きの不備を理由に補助金の不交付という形で、「国民感情を害する表現」=「政府が好ましくないと思う表現」という図式を明示しました。誰の感情かわからない「国民感情」が今や政府の意思に置き換わっている。これには危機感を抱きます。(聞き手・高久潤)
歴史観のもやもや背景 松原隆一郎さん 社会経済学者東京大学名誉教授 1956年生まれ。放送大学教授。著書に「経済思想入門」など。2008~09年度に本紙「論壇時評」担当。 「表現の不自由・その後」は展示全体が左派的な作品に偏っていたので、公費で運営される場での展示としては政治的だと感じられても仕方なかったと思います。ただ、批判派が「国民感情」を持ち出して展示を批判した点には賛同できません。仮にそうした右派的な心情が日本社会の多数を占めていたとしても、多数派の感情を社会のルールにしろと迫るかのような言い方は適切ではないと思うからです。「国民」という言葉のカギは、多様な価値観の共存です。「展示が表現の自由を逸脱した」と批判するなら、国民感情を持ち出すのではなく、なぜその展示が多様な価値観の共存を損なうのかをきちんと説明すべきでした。表現が誰の人権をどう侵害するのかなど、丁寧に検討されるべき論点はあったはずです。今回批判されたのは、慰安婦をモチーフにした少女像と昭和天皇の肖像が焼かれたかに見える映像でした。歴史認識が問われるテーマです。戦前の日本のありようが国際的に否定されている状況に納得がいかない国民はいるでしょう。韓国が歴史問題で日本を批判することに、「いつまで謝ればいいのだ」と不満に思う人々もいます。ただ、先の大戦は米英と日独伊の両陣営が互いの価値観を賭けた闘いでもありました。共存を拒絶したのですから、負けた側が体制を否定されるのは仕方ありません。また韓国は日本の植民地統治下にあったので、批判が終わらないのも仕方ない。もし解決するにしても数百年かかる問題だと考えるべきです。頭では仕方ないことだと分っていても心の整理がつけられない。国民感情というキーワードが浮上した背景には、こうした日本国民の心情があると思います。もやもやした心情にきちんとした言葉や表現を与えることに戦後日本の右派が成功していないことも、一因だと思います。原因は、戦争責任の問題に日本人の手で決着を付けられなかったことでしょう。戦前を正当化しようとする右派の試みは、そのせいでどこか空転してしまうのです。近年の右派を見ていると、右派的な心情が世論の多数を占めると自負するあまり、丁寧に言葉を探す姿勢がおろそかになっているとも感じます。国民感情に注目する試みにプラスの可能性が全くないとは思いません。たとえば、見送りが決まった英語民間試験。「経済格差が当然視されるのはおかしい」「地元で安心して教育を受けたい」という批判の中には、政治的な左右の違いを超えた心情の広がりがあったと思います。こうした心情の根底にあるのは何か。その答えとなりうる言葉を探す作業が求められているのだと思います。(聞き手 編集委員・塩倉裕)
「普通」を盾に分断と排除 明戸隆浩さん 社会学者東京大学特任教授 1976年生まれ。専門は多文化社会論。供著書に「奇妙なナショナリズムの時代」など。「日本人ならば怒って当然ではないか」。世論を分ける問題が起きると、そんなぼんやりとしたナショナリズムな言説・雰囲気を支持する風潮が広がります。最近多少落ち着きましたが、数カ月前ならば徴用工や韓国の「ホワイト国除外」を巡る外交上の緊張などについて。連日テレビの情報番組などが韓国を「敵国」視する報道を繰り返し、一部週刊誌もそれに便乗しました。私はポピュリズム(人民第一主義)とナショナリズムが結びついた問題として捉えています。「普通の人たち」が、そうではない人を批判・攻撃する。ナショナリズムは所属するネーション(国民)への肯定的な感情を指しますが、それだけでは攻撃を伴うとは限りません。今の風潮は自己否定よりも、日本人以外への批判・攻撃が含まれています。あいちトリエンナーレで河村たかし名古屋市長が「日本人の心」を持ち出し、慰安婦を題材にした「平和の少女像」に批判の矛先を向けました。彼が率先して世論をリードしたというより、世論の動きを察知、または後押しを受けたというのが正解でしょう。では、彼をそういう動きに駆り立てたのは何だったか。市職員が作文したのかもしれませんが、市長発言の「日本人の心」は、抗議声明では「国民感情」と「翻訳」されました。「市民感情」「民意」など置き換えられる言葉は他にもありますが、国民感情になったのは示唆的です。ポピュリズムが根差す「普通の人たち」に、ナショナルな意味が加わっていることを示しています。もちろん、その理由は河村氏が反発した作品がいずれも日本の歴史認識に関わるものだったからです。歴史認識をめぐっては1996年に「新しい歴史教科書をつくる会」が、まさに団体の名前が示すように、加害の歴史を反省し戦前の日本を否定する、既存の歴史認識に異を唱えた。少なくともことの時期は、歴史の反省・謝罪が普通であったわけです。ですが戦後レジュームからの脱却を目指す安倍政権が長期政権を担う中、「加害の歴史を繰り返し反省・謝罪する」ことへの違和感が定着しつつある。しかもこの文脈での自国=日本の肯定は、同時に朝鮮半島を始め、先の戦争での被害国の人々や、戦前の日本を肯定しない人の否定につながっている。ポピュリズムがナショナルな言説と結びつく現象は日本だけではありません。米国のトランプ米大統領が訴える自国第一主義もそう。かつて国民の感情たるナショナリズムは、国の一体性を生み出すとされていました。しかし今、国民感情は歴史の中で分断と排除を生み出すものになっています。(聞き手・高久潤)

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