11月23日 「早く見つけて」無言の叫び

朝日新聞2019年11月17日1面:布団の上 誰にもみとられず 昨年12月4日、大阪府豊中市。記者は築50年を超える木造アパートの前にいた。シャワーキャップに似たヘアーキャップ、靴のまわりに足カバーをつける。「虫が入ってこないように靴下の中にズボンを入れた方がいい」。以前に捜査員からこう言われたのを思い出し、その通りにした。記者がこれから向かうのは、遺体が見つかった一室だ。誰にもみとられずに死後、時間が経過してから見つかる孤独死。年間数万件に及ぶとも言われるが、全国的な統計はない。高齢化社会が進む中、より深刻化しているとの指摘もある。いま何が起きているのか。記者はその実情を取材するため、大阪府警の強力を得て、現場に同行した。山元雅彦(59)は、孤独死を含め、死因が明らかでない遺体について事件性の有無を見極める検視官。記者が現場に着いたとき、山元はアパートに入るところだった。廊下を進むと、臭気が迫ってくる。そのとき脳裏に浮かんだのは、あるベテラン捜査員の言葉だ。「遺体の臭いはな、『早く見つけてくれ』という死者の叫びなんや」 廊下の奥の5号室。捜査員がドアノブを軽くひねると、きしみながら扉が開いた。机の上にはスープが入った鍋や皿がそのまま。時間がとまったかのような4畳半一間の布団の上で、男性が倒れていた。おそらくはこの部屋の住人なのだろうが、そう断定する根拠はない。その遺体を前に山元は目を閉じ、そっと手を合わせる。左手首の透明な数珠が、揺れた。「最終(の生存確認)は?」「大家が1ヵ月前にアパートで会話」「お金は?」「15万5千円あり」「発見時の室内温度は?」「26.0度」山本の問いに、捜査員がよどみなく答る。そこから事件性の有無が判断される。2012年に検視官になった山元が向き合った遺体は約1600体。数珠はなりたての頃からつけている。その意味を尋ねると、こう教えてくれた。「ホトケさんにね、行くところなかったら、どうぞ俺について来いよって」30分ほど調べた後、山元は遺体を豊中南署へ運ぶよう指示した。死因を調べるとともに、身元を特定するためだ。記者の目の前で、遺体が担架に乗せられ、運び出されていった。孤独死が深刻化する中、大阪府警は今春、検視調査課の態勢を強化した。ある府警幹部は、こう言う。「確実に件数は増えている。減らすよう取り組まなければ、警察は、いずれそれだけで手いっぱいになるだろう」=敬称略 同日2面:かまわんとって82歳心は奄美に 男性の遺体が見つかってから2週間後の昨年12月19日、大阪府豊中市のアパートの一室で、大家の女性(75)が遺品整理に追われていた。遺体は死後1ヵ月たっていたとみられ、当初は身元が確認できなかった。その後、身体的な特徴から住人の男性(当時82歳)と特定された。バサッ、バサッ、バサッ。着古した作業着、スープが入ったままの鍋、ほこりをかぶった壁時計。ごみ袋にそれらが投げ込まれていく。まるで住人の想い出が一つずつ処分されていくかのようだ。壁のあちこちに、額に入った写真が飾られていた。きょうだいらしき男女に囲まれた男性は、微笑みを浮かべていた。一方で妻や子どもといった、男性の家庭の存在をうかがせるものはない。額縁を手に取り、処分しようとした大家は写真の中の男性に許しを請うように、こう言った。「ごめんね。ごめんね。堪忍ね。こうするしかないんよ・・」大家によると、男性は約10年前にひとりで入居。「(鹿児島県の)奄美出身」と話していた。男性はどんな人生を送ったのか。証言や残されたものから、足跡をたどった。手がかりのひとつは、奄美群島のとある島の出身者らによる会報。そこには「加計呂麻島」(かけろま)とあった。島の出身者を大阪で探すと、男性と同じ集落で育った70代の元大工がいた。亡くなった男性も、もとは大工仕事をしていたという。「彼は『型枠大工』といって、コンクリを流し込む木枠を作るのが専門やった」。そしてこうつぶやいた。「酒好きだったが、腕はよかった。死んじまったか・・」  「金の卵」島離れ都会へ 遺体が見つかったアパートから約1千㌔離れた加計呂麻島。男性の生家があった場所を訪ねると、家はすでに取り壊されていた。男性は1936年、5人きょうだいの末っ子として生まれた。戦後、奄美群島は米軍による統治を受け、本土への航路は絶たれた。若者は職を求めて同じ米軍統治下の沖縄へ。男性も沖縄で土木作業員として働いた。「一九五三年一月一七才」と手書きされた、那覇の建設現場での写真がアパートに残されていた。この年の12月、奄美群島は本土へ復帰。このころ日本は朝鮮戦争に端を発する特需景気を足がかりに、高度経済成長期を迎えようとしていた。集団就職が始まり、奄美を含む鹿児島県からは「金の卵」と呼ばれた若者が都市部を目指す。男性もこうした時代背景の中、関西へやって来た。「船会社で船員に。その後は阪急梅田駅近くのパチンコ店で住み込みで働いた。店がつぶれた後、土木仕事で転々とした」。晩年、周囲にそう語ることもあった。男性が土木作業員として働いた60年代後半の大阪は、70年の大阪万博に向けた建設ラッシュのまっただ中だった。日雇い労働者の街、釜ヶ崎(大阪西成区)には全国から約3万人が集まったという。 ■ ■ 高度経済成長期の一端を担った男性は、その後どんな暮らしを送ったのか。勤めていた複数の建設会社を訪ねたが、いずれも所在地だった場所には跡形がなく、当時の様子をうかがい知ることはできなかった。歳月は流れ、年を重ねた男性は、私たちがよく知る「単身化」と、「高齢化」の波にのみ込まれていく。「(平成)20年2月15日入場」。11年前の日付が記された工事用ヘルメットが、亡くなった部屋に残されていた。当時71歳だったはずだが、まだ現役だったのだろう。このラベルが書かれてから約7カ月後、米の証券会社の破綻が世界経済を混乱させる。リーマンショック。男性はこのころから、生活保護を受ける始めた。男性が亡くなったアパートの近くで、行きつけの定食屋を見つけた。普段は無口だったが、1杯350円の冷酒を一口飲むとすぐに酔い、居合わせた客に話しかけては煙たがられていた。店主は言う。「やめときと言うのに、かわまず声をかけていた。さびしいんやなあと思ってました。『奄美に帰りたい』とよく言ってた。結局かなわんかったんやね・・」 「寂しい葬式」兄の後悔 取材を続ける中、男性の兄(85)に会うことができた。兄によると、若い頃は2人で大工工事をしたこともあったが、兄が家庭を持つと、次第に関係は薄らいでいった。男性は晩年、兄夫婦にこう告げたという。「こういう身やから、かまわんとってほしい」今となっては、その言葉の真意はわからない。だが兄夫婦は迷惑をかけたくないのだろうと受け止めた。「どんな暮らしをしているのか、わからないままだった」。こう語った兄は、豊中市から男性の死を知らされたという。遺体は昨年末、豊中市の斎場で火葬された。生活実態に応じて国と自治体が葬祭扶助の名目で葬儀費用を支給する、「福祉葬」と呼ばれるものだ。祭壇には花がなく、急きょ参列することになった兄夫婦は花屋を探したが、見つけられなかった。兄は今も悔やむ。「それはそれは、寂しい葬式でした・・」 ■ ■ 男性の部屋には、奄美に伝わる島唄の歌集が残っていた。パラパラとめくると、このんあ一節が目に入った。〽十七八頃や 夜の暮れど待ちゅり 何時が夜の暮れてわー自由なりゅり 意味はこうだという。「十七、八才の頃は夜の暮れが待ち遠しい。いつになったら夜が暮れ、私は自由になるのだろうか」若かりしころに志を抱いて故郷を離れ、大阪へやって来た男性の心象風景のように思えてならなかった。季節がかわるころ、再びあのアパートを訪ねた。整理され、何事もなくかったのような部屋。畳には黒いしみが、かすかに残っていた。 増える単身高齢者 高まる孤独死リスク 民間調査機関「ニッセイ基礎研究所」は2011年、65歳以上の高齢者が自宅で死亡し、死後2日以上経過したケースが全国で年間2万7千件にのぼると推計した。平均すれば1日に70件以上。「実態はもっと多いはず」とする専門家もいるが、孤独死の明確な定義はなく、国全体の実態を示すデータはない。日本社会が急速に高齢化する中、「単身化」も進む。総務省によると、高齢者数に占める一人暮らしの割合は00年に13.8%、15年に17.7%に。国立社会保障・人口問題研究所は、40年に世帯主が65歳以上の高齢世帯のうち、約40%が一人暮らしになると推計した。家族の形が変容したことにより、「孤独死リスク」が増大していくといえる。明治学院大学の河合克義名誉教授(社会福祉学)は原因を探ると、高度経済成長期に行き着くとの立場だ。「当時の政策として、太平洋ベルト地帯を中心に工業配置はなされ、都市部での労働力不足は農村からの集団就職で、その後は出稼ぎという形で補われた」。その結果、人が減った農村部、新たに流入した都市部いずれでも地域のネットワークや家族のつながりが希薄化したという。不安感は若年層にも広がる。朝日新聞の世論調査では、自分が孤独死することを「心配」と答えた人は、29歳以下をみると10年に40%から18年は57%に増加。河合氏は「経済的に安定し、社会とのつながりがある老後を、すでにイメージできなくなっていることの表れではないか」と話す。(長谷川健、光墨祥吾、永野真奈、国方萌乃、矢木隆晴)

 

 

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