11月21日 みちのものがたり 宇陀松山 薬草の道(奈良県)

朝日新聞2019年11月16日be6面:癒しの草木に人生捧げ 長く尾を引く夏の名残が、やっとのことで去りつつあった10月半ば。紅葉にはまだ早い山の中には、頭上の枝にも足元の草にもみずみずしさを残した葉が茂り、湿った土の香と入り混じる、青い匂いを吐き出していた。日本書紀に初の薬猟(くすりがり)の地「菟田野」として記される奈良県宇陀市、大宇陀地区。竜門山地から湧き出る清流宇陀川沿いの宇陀松山は、かつて豊臣系の大名も住んだ山城の旧城下町だ。芯を貫く通り沿いには、医薬ゆかりの古民家が黒い甍(いらか)の軒を差す。その一軒で、特産の葛を商うのが「森野吉野葛本舗」。屋敷の裏手には、江戸中期に開かれた民間最古の薬草園「森野旧薬園」が広がる。「滑りやすいから気を付けて」。スニーカーの足で先に立ち、山道に刻まれた不確かな段を軽快に上る森野燾子(てるこ)さん(80)がひらりと振り向いた。19代目当主だった夫亡き後、薬園を守り続ける「おかみさん」。差し出された手は長年培ってきた葛の験か、つるんと滑らかで真っ白だ。「この草はトリカブト。猛毒だが花はきれいだよ」と、数段戻り、教えてくれたのは薬園の日々の管理を担う原野悦良さん(86)。追いつくのもやっとの私は、年齢を重ねてなおまっすぐな2人の背中に感嘆しつつ己の不摂生からは目をそらし、この町の食卓に上るという葛粉や当帰の青葉など、薬効を秘めた草木の力をぼんやり思った。薬園の開祖は吉野葛製造を家業とする森野家の10代目当主、通貞(1690~1767)。「宇陀は昔も今も山野の恵み豊かな薬草の里。通貞が効ある草木を自ら育て、研究したのは自然の成り行きだったのでしょう」と燾子さん。 当時の日本は衛生も栄養も足るには遠く、疫病や飢饉で多くの命が消えていった。救うには薬がいるが、原料生薬の大半は高価な渡米品。財政圧迫に悩む幕府は各地に採薬使を送り、国産生薬栽培への道を模索した。その1人、植村佐平次に従う「薬草見習」に選ばれたのが通貞だった。さぞ張り切ったのだろう。近畿一円から美嚢、北陸に至る調査に幾度も同行し、多様な薬草を採取した活躍が伝わる。この功で通貞は貴重な外国産薬草木と初代「藤助」の名を牧夫から拝受。1729年に開いたのがこの薬園だ。以来3世紀。森野家は、薬草木を守り育てる大力を幼時から子に養わせるようつづった3代目藤助の家訓に従い、代々薬園を管理してきた。来園者年5千人、入園料は300円。燾子さんによると「維持費には足らず、家業の葛から待ち出しばかり」。それでも「力の続く限り次代につなごう」と誓っている。心の底にあるのは、晩年は賽郭を名乗り、薬園で庵で暮らした初代藤助の辞世の歌だ。賽郭は 末だ死もせず生きもせず 春秋ここに楽ぞするーー。「賽郭の魂は今も薬草木と共にある。私もまた、昔はつらくも感じたけれど、今は薬園を守ることが人生そのもの、と思えるんです」 薬園には今も250種の薬草木が茂る。「それぞれ、ここでなければという場所でしか育たないのですよ」。燾子さんの言葉が胸に深く響いた。
人も国土も救う「処方箋」 宇陀松山は京都や奈良と伊勢をつなぐ要衡でもあった。1695年に最後の藩主がお家騒動で去り、幕府の天領になると商人の町として大いに栄え、「宇陀千軒」と呼ばれるまでに。薬猟に続く歴史や薬園のゆかりもあり、なかでも薬関連は群を抜く。宇陀市によると、江戸末期の1854年で国産生薬を扱う和薬13軒、薬種11軒、薬剤調合の合薬29軒の計53軒が軒を連ねた、という記録が残る。薬園を出て通りを歩けば座敷玄関や虫籠窓など、手の込んだ通りの家々が往時の繁栄をしのばせる。多くの大店が商いを閉じ、江戸期から歴史の続く薬店は1841年創業の「平五薬局」ただ一軒だ。「子どもの頃には、うちのような古くからの薬店もまだ数軒ありました」。5代目当主の平井文吾さん(77)は、所狭しと飾られた歴史のある薬の看板を背にそう語る。大阪の大学で薬学を学び、東京の製薬会社に就職。社用族として夜の銀座も楽しんだが「いつか宇陀に戻り薬局を継ぐ」ことが、薬の町で薬の家に生まれた己の責務なのだと、常に頭にあったという。先代の父の死で当主となり23年。「この辺りも高齢化が進み人も減り、薬もネットや大型量販店で買う時代。先の見えぬ商いを子や孫に継がせたいとは思わない」。子には己の人生を歩むよう伝え、自分の代で畳む決意を固めている。祖先は独自の薬を調合したが、法律で許されぬ今、平井さんの得意は豊かな生薬知識を生かし、悩みに合わせ独自にブレンドした薬草を茶にする「茶料」だ。「うちがないと困ると言ってくれる客が全国にいる。体が動く限り続けるつもりだ」。穏やかな顔が、この時ばかりは薬の町に生きるプロの矜持に輝いた。 酒は過ごせば「万病の元」だが、ほどほどならば「百薬の長」。薬のまちの通り沿いには造り酒屋が今なお残る。その一軒が、1702年創業の「久保本家酒造」だ。全盛は明治期。先細りする中、大手酒造の下請けでしのぎ、廃業を思う時期もあったが2003年、11代目当主の久保順平さん(57)が新たな杜氏と出会い「独自銘柄で再興を」と江戸時代の「生酛造り」を始めた。完成したのはキレがある辛口の濁り酒「生酛のどぶ」。熱燗で肉にも合う独特の飲み口で美食雑誌や漫画にも取り上げられ、酒蔵は往年の活気を取り戻した。「諦めないのは伝統かな」と久保さん。心に思う祖先がいる。6代目の弟、良平だ。幕末に生まれた良平は医薬を学び、16歳で緒方洪庵の適塾に入門。宇陀に戻ると猛威を振るう天然痘を憂い1859年「宇陀徐痘館」を開き、奈良初の種痘を始めたという。「牛の膿を使う種痘は角が生えると恐れられたが、根気よく広めた。郷土史にも登場する良平は励みで誇り」。今も一族で続ける医院があると聞き、酒蔵から通りを数分歩くと、格子に虫籠窓の古風な町家に「内科 X線科 久保医院」の看板が。民家を思わす引き戸の奥に、医師がいる。医薬住が密接な薬の町の距離感は失われてはいないのだ。薬との縁で活性化する「薬草のまち」をめざす宇陀市。「薬草が特産でなきゃ」。山口農園会長で指導農業士の山口武さん(66)は、宇陀の山中で大和当帰や甘茶を育てる。子の山で生まれ育った。「昔の里山は落葉樹主体の雑木林が山側に根を張り、土も水もがっちり抱えた。植林の針葉樹は根張りが谷側で、大雨に弱い」と各地の土砂被害を憂う。「里山にも生えていたキハダは樹皮かた胃腸薬になるオウバクが取れる薬木。杉やヒノキのかわりに植えれば山が災害に強くなり、農家の収入にもなるのになあ」薬草木は、人の心身のみならず国土を救う「処方箋」にもなるかもしれない。万葉の昔、宇陀では人々が苦しみから解放してくれる薬を求めて鹿を追い、薬草をつんだ。同じ野に沈む赤く大きな夕日を見つめ、恵みあれ、と心から祈った。 文・西本ゆか 写真・小杉豊和

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