11月20日てんでんこ 皇室と震災Ⅲ【7】

朝日新聞2017年11月15日3面:出口が見えない避難生活の中、心の中に小さな明かりがともったようだった。 雲仙・普賢岳が大火砕流に見舞われた1991年6月3日。ふもとの「上木場地区」(かみごば)では避難勧告後も、地元消防団員が山の警戒監視にあたり、多くの報道陣もとどまっていた。長崎県島原市職員だった杉本伸一さん(67)は「前線本部」で、約2キロ離れた安中公民館の責任者を務めていた。
杉本さんの記録によれば、6月3日はこの地方には珍しい西の風が吹いていた。午後4時8分ごろ、公民館で待機していると、携帯無線機を通じて「逃げます!」という緊迫した声が飛び込んできた。窓から外を見ると、黒い煙に住宅がのみ込まれていくのがはっきり見えた。愛車のホンダのシビックに飛び乗り、農道を北上し、上木場地区を目指した。
普賢岳から流れる水無川にかかる橋まで着いたとき、噴煙に覆われた空から、燃える木の葉や木くずなどが次々と飛んで来た。フロントガラスは降灰で真っ黒。ドアから顔を出しながら前方を確認し、「やっとの思いで公民館に帰った」。
後に杉本さんは、自著「そのとき何が」の中で、住民の話として「午後3時から午後3時半ごろ、『こんなに鳥がいるのか』と思うほどたくさんの鳥が、一斉に普賢岳や眉山から深江方向に飛んで行ったという。鳥たちは何か山の異常を感じ取っていたのであろうか」と記している。普賢岳から突如噴き出した大火砕流は、上木場付近を警戒していた消防団員12人、地元住民6人、警察官2人、火山研究者3人、報道関係者20人の計43人の命を奪った。
天皇、皇后両陛下は7月10日、避難所となっていた島原市立第三小学校の体育館を訪れた。天皇陛下はノーネクタイで、ワイシャツの袖をまくっていた。両陛下は畳のない床に直接ひざをつき、通路の両側にいる人らに次々と声をかけ始めた。「こちらが畳の上に座っているのに・・」と杉本さんは驚いた。
避難から約1ヵ月となる子の時期、住民はストレスを募らせていた。「弁当がまずい」「いつまで避難させるのか。補償はどうなるんだ」との苦情が相次ぎ、避難者同士のいさかいも絶えなかった。そんな険悪なムードが、「がらっと変わった」。「あの日から我々は落ち着きを取り戻せた。出口が見えない避難生活の中、心に小さな明かりがともったようだった」(田中絢子)

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