10月16日 窓 明日でも百でも

朝日新聞2019年10月13日26面:スマホでも同じ単語を検索するのが習慣になっていた。「肉腫」二つの文字を画面に打ち込むとき、男性(42)の脳裏にはいつも、医師の言葉が浮かんでいた。「5年以内の生存率は50%」-。右わき下にできた5㌢ほどの脂肪の塊を、そう診断されたのは2017年5月だった。10万人に2人が発症する悪性腫瘍の一種という。その日、どうやって自宅に帰ったのかは覚えていない。都内の大学で教壇に立つ。経済学の博士号を取得したのは30歳を過ぎてから。37歳でようやく職を得て、研究だけでなく教えることにも魅力を感じるようになっていた。その俺がなぜ。死にたくない。死にたくない。5回入院し、2度手術を受けた。成功はしたが、いつ再発してもおかしくなかった。夜、気づくと自室でひとり、泣いていた。病状に関するサイトや、がん患者のブログを手当たり次第にあたった。ある日、吸い寄せられるように目にとまる文字があった。<明日死んでもよし、百まで生きてもよし> いい言葉だな。 個人が身辺雑記をつづったホームページだった。43歳でがんを発症。再発もしたが、闘病しながら教員の仕事に復帰した、とあった。10年以上前に書かれたもののようだ。<自分自身が主治医だ> そんな一文もあった。いつ来るかわからない死におびえるよりも、目の前の日々を大切にする。そんな覚悟の仕方があったのかと、心が少しだけ軽くなった。それから1年ほどが過ぎた今年の夏。ホームページの内容が自費出版されていることを知り、ネットで注文した。まもなく、小包が届いた。本に添えられていた紙片を開くと、領収書の余白に走り書きがあった。<私はまだ健康で生きています。もう65歳です> 発証から二十余年。ホームページの主はいまも生きていた。今月下旬、男性は5カ月ぶりに検査を受ける。前回、医師には「まだ、いませんね」と言われた。まずはあと2年半。このままがんが見つからなければ、生存率は少しだけ高くなる。<明日死んでもよし、百まで生きてもよし> 暗唱できるほど読み返した本だが、検査に行く前、もう一度、目を通そうと思っている。(小林太一)

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