10日 首長と震災 被災自治体の6年

朝日新聞2017年3月7日3面:庁舎保存 民意は割れた 同じ結論にたどり着いた二人の町長 民意が割れたとき、首長はどう判断すべきか。被災地の二人の町長は、正反対の立場を歩みながら、同じ結論にたど着く。一人は宮城県南三陸町長の佐藤仁(65)。もう一人は岩手県大槌町長の平野公三(60)。二人はあの日、それぞれ庁舎の屋上で生き延びた。佐藤は南三陸の防災対策庁舎の屋上にいた。家屋をなぎ倒した津波はしぶきを上げ、屋上を越えた。頭まで水につかったが、波の上下で呼吸ができた。屋上にいた職員ら43人が流されて死亡した。
同じころ、約80キロ北の大槌町の役場庁舎の屋上には総務課主幹だった平野がいた。黒い壁のような波が押し寄せ、周囲は海になっていた。町長と職員39人が死亡・行方不明になった。
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職員たちが命をつないだ庁舎には、その後、町民の対立の舞台となっていく。南三陸町の佐藤は「あの建物は将来の教訓になる」と保存を望んだ。しかし、遺族から「見るたびに悲しくなる」との声が上がり、職員は「復興事業の妨げになる」と指摘した。建物の周囲はかさ上げが予定されていた。2013年9月の記者会見で、解体を発表せざるを得なくなった。
大槌町の平野は解体派だった。15年8月の町長選で初当選すると「肌感覚では町民のほとんどが解体だ」と述べ、解体に向けて予算案を出すと宣言した。しかし、震災から4年がたち、民意は揺れ動いていた。町長選と同時の町議選で議会の顔ぶれも変わり、保存派が増えていた。平野は激しい反対にあった。
初当選から3カ月後、高校正10人と意見交換する機会があった。全員が「後世のために」と保存を求めた。平野は机をたたき、「あの建物のそばを通れない町民の気持ちを、考えたことがありますか」といらだちをあらわにした。
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解体を迫られた佐藤。保存を迫られた平野。 遺族をめぐる民意のはざまで判断を迫られた首長は、70年前もいた。「いずれが正しいとか、間違っているとかいう問題ではない」1947年から広島市長を通算4期務め、「原爆市長」と呼ばれた浜井信三。自著で書いたのは原爆ドームの保存をめぐる問題だ。
戦後6,7年が過ぎて復興計画が進むと、「悲惨な思い出は早く取り除いて」と解体を求める声と、「世界平和への反省の起点に」と保存を望む声が高まった。浜井は当時、保存にも撤去にも費用がかかるとして、そのままにしておくという政治判断をした。
10年ほどたつと、被爆者団体も保存運動に加わり始めた。補強できることもわかり、約20年後の66年、浜井は保存を表明した。
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震災遺構の保存を模索していた宮城県知事の村井嘉浩(56)は、この広島市長の知恵にたどり着いた。「冷却期間を置くのに県で預かるのも手かと」。20年後の2031年まで県有化し、それから保存の是非を判断することを提案した。
これを受け、佐藤は15年6月、提案の受け入れを表明した。「残す、残さない、どちらも正しい。時間をかけて、将来が見えるようになってから考えるべきだ」大槌町の平野も先送りを決断する。昨年4月、全議員が町民から聞き取りをすると、「将来考えればいい問題」という町民も多いことがわかった。議会は保存派と解体派に割れていた。
昨年11月、正副議長と議長室で向き合った平野は、「解体予算案の12月議会への提出はしない」と告げた。議長は「我々も民意を受けた存在。もう少し待った方がいい」と応じた。
旧役場庁舎の前には献花台が設けられ、訪れる人が絶えない。「犠牲になられた職員の一人一人の顔を思い浮かべると、あの日、生き残ってしまった後ろめたさを感じています」1年前の3月11日、献花台での平野の言葉である。  =敬称略 (星乃勇介、加藤裕則、工藤隆治)

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