1月21日 みちものがたり 「前進座」につながった道(東京都)

朝日新聞2020年1月18日be6面:芝居の未来語り巡った濠端 東京・銀座の歌舞伎座から数寄屋橋に向かい、丸の内の方へ20分も歩くと、皇居外苑の濠端が見えてくる。冷たい夜風に首をくすめてブーツの足を早めれば、たゆたう水面に街の灯が散って金銀赤青、さながら冬の花火のようだ。歌舞伎俳優の中村翫右衛門が、師匠の五代目中村歌右衛門に革新的な色合いの機関誌「劇戦」発行をとがめられ、破門を宣告されたのは1929年、28歳の晩秋。その夜、俳優仲間で「いちばん信頼できる男」と任じていた26歳の河原崎長十郎と夜半まで巡り歩いたのが、この道だった。小芝居の一座に生まれ、努力と才で歌舞伎の名題に出世した翫右衛門と、祖父が九代目団十郎の養親も務めた名家出身の長十郎。立場も違う2人だが、門閥制度による不平等撤廃や、過酷な生活水準に苦しむ大部屋俳優の待遇改善を求める思想で一致した。話もウマも不思議とあった。「今夜、芝居がはねたらゆっくり話したい」。共に出演していた歌舞伎座で楽屋雀の目をしのび、翫右衛門はどんな気持ちでそのメモを長十郎に手渡したのだろう。楽屋口から少し離れた数寄屋橋寄りで待ち合わせ、丸の内の方へと歩む道すがら、破門を告げられた己の不安と歌舞伎の行く末、言葉はせきを切ったようにほとぼしったに違いない。翫右衛門の憂いを受けとめた長十郎の答えは、「世の中がよくならねば歌舞伎もよくならない」だった。ロウソクより便利だから電灯の世となり、歌舞伎も電灯をつけぬわけにはいかなくなった。だから歌舞伎の旧弊を改めるには、まず世の封建的なものをなくすことだー。話は尽きず、「宮城の堀のあたりをぐるぐる歩いていた」という。「堅く結びあって、歌舞伎界をよくしよう」「社会のよくなるように生命をかけて努力しよう」。心を一つにし、やっと足を止めた時、2人の前には旧弊な価値観から解き放たれて共に踏み出す、新たな道が開かれていた。二代目市川猿之助の「春秋座」を経て31年、俳優や演出家ら32人で劇団「前進座」結成。創設までの内幕を描く「歌舞伎大国」で旗揚げし、門閥など因習打破や収支の公開、新たな大衆演劇創造で歌舞伎の革新を目指した。37年には稽古場と座員住宅併設の「演劇映画研究所」を東京・吉祥寺に完成、共同生活も始めた。劇場第1世代の五代目嵐芳三郎を父にもち、住宅ま生まれた初の赤ん坊だった嵐圭史さん(79)は「舞台理念を共有でき、誰もが平等。前進座『らしさ』を育む大きな家族のようだった」と懐かしむ。だが68年、その「大家族」に激震が走る。7月に召集された臨時総会で、長十郎が劇団から除名されたのだ。正座員63人のうち欠席は中国に単身滞在中だった長十郎のみ、全員一致。皇居外苑をお巡ったあの夜から、共に歩んできたはずの翫右衛門は判眼のまま眉一つ動かさず、黙して賛成の挙手をしたという。2人の付き人めいた役割も長く担った元劇団文芸部長、小池章太郎さん(84)はその姿に「何と冷酷な、と憤りを感じた」と振り返る。「やむを得ぬにしても、彼を思い最後にひとこと言えるのは翫右衛門さんしかいなかったのに」道は、どこで分かれてしまったのだろう。
断腸の決別 理念は今も 端緒は49年、3月7日だったのではなかろうか。翌朝の朝日新聞は「前進座69名共産党へ」の見出しで、前日に行われた演劇映画研究所での入党式を伝える。「米国占領下の巡業で労働者の過酷な実態に触れ、真の民主化を望む声に共鳴したのでは」と圭史さん。「みな純粋で、理想主義な『役者こども』だったから」。だが波紋と代償は大きかった。多くの後援を失い、学校や公共施設では公演使用許可の撤回が続発。翫右衛門は80年刊行の「劇団五十年」に「理由は”赤い劇団”だから」だったと記す。52年、ついに北海道・赤平で「事件」が起きた。直前に使用拒否された小学校で観客の支援に推されて開いた公演が不法侵入に問われ、翫右衛門に逮捕状が出たのだ。「捕まれば芝居ができぬ」。酔漢や魚屋に変装して楽屋入りし、道内各地で巡業を続けた翫右衛門に、観客は「神出鬼没」と大喝采。その後は中国に逃れ、文化人や政治家の支援で55年に帰国を果たすと出迎えた山田五十鈴さんら、大勢の歓声で空港が沸いた。一方で劇団幹事長として不在を支えた長十郎の目は冷えていた。劇団第一なら出頭し説明すれば穏便に収められたじゃないかー。「それが彼の本音だった」と小池さんはいう。だが役者としても幹部としても巨人になりすぎた2人は顔を合わすのもまれで、会話は「僕らを介した伝言ゲームのよう」。思いをぶつけ合うことはなかったと振り返る。66年、劇団は文化大革命さなかの中国で公演。今度は文革に共鳴した長十郎の活動が顕著になり67年、劇団批判を展開し1年近く中国へ渡ってしまう。かつて3年余も大陸へ逃れた己の過去が負い目となったか、翫右衛門も結局、とどめることはできなかった。翌夏、長十郎除名。新幹事長の翫右衛門は劇団立て直しを進め、創立50周年事業に新劇場建設を決定。81年夏着工し、古い建物は解体された。幸も不幸も喜びも悲しみもすべてつまった会議室や稽古場が、重機で打ち壊されていく。その光景を、自身の不在中の除名を認めず、座員住宅に住み続けた長十郎が「じっと見ていた」と、小池さん後に長十郎の長男、故河原崎長一郎さんから聞いている。砕け散る屋舎を仰ぎ、はらわたのちぎれるような声で、「この建物だけは壊したくなかった」と叫んでいた、と。長十郎の急逝はそれからまもない9月22日。翌年9月21日、翫右衛門も世を去った。2人の死後も、長十郎の除名会議での翫右衛門の冷淡を許せずにいた小池さんは88年退座。ほどなく翫右衛門の息子の故中村梅之助さんに再開し、「あの会議」の話になったという。聞かされた真相は、思いもよらないものだった。「あの日、帰宅したおやじは号泣したんだよ。夜更けに一人、声を上げて」九十余年前、青年2人が理想への一歩を踏み出した濠端に立ち、考える。道は本当に分かれてしまったか。実はひたすら悲しく無残に、すれ違い続けただけではなかろうか。現在の前進座に政治色はなく、長十郎や翫右衛門の子孫も座にいない。2人の時代は今や違いが、劇団四季の故浅利慶太さんは「役者は芝居で食えねば、との理念の手本は前進座」と言っていた。前進座ができた翌年に、角界で待遇や協会の体質改善を求めて反旗を翻した力士の天竜三郎も後日、長十郎と翫右衛門を劇団に訪ねてきたという。濠の水面にさざめく街の灯を見つめ確信する。最も美しい一瞬で夜空に焼き付く花火のように、青年の理想で高みを目指して激しく燃えた残像は、見上げた者の心から消え去ることはないのだと。「勧進帳」なら長十郎が弁慶、翫右衛門は富樫。幕が開ければ異なる任がかちりとはまり絶妙な呼吸で輝いたという。舞台の外で何があろうと、芝居を愛する役者としての魂の道はきっと終生、一筋だった。 文・西本ゆか 写真・迫和義

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