1月15日 みちのものがたり ハマのメリーさんの道(神奈川県)

朝日新聞2020年1月11日be6面:あなた、あたしをどう思う 姿を見かけた人は数え切れない。写真も残っている。だが彼女は一体なんだったのだろうか。実像に迫ろうとするほど遠ざかってしまう。全身白ずくめで横浜市の街角に立っていた娼婦「ハマのメリーさん」である。「ホワイトさん」「白いお化け」「きんきらさん」と呼ばれ、都市伝説にもなった。「西岡雪子」という仮名もあった。米海軍横須賀基地(神奈川県横須賀市)の近くで米兵の袖を引いていたあと、横浜に居着いたのは1960年代といわれる。だが、それ以前にも横浜に来ていたのではないだろうか。インテリでお金持ちそうな男性を選んでいた。「高級コールガール」という表現の方がいいかもしれない。ほかの娼婦に対しては「あなたたちとは違うのよ」というような態度で接していたそうだ。横浜に住む私の叔母(70)がメリーさんを見たのは65年ごろ。元号でいえば昭和40年ごろである。横浜駅西口にある高島屋に買い物に行ったとき、エレベーターから突然降りてきたという。「貴族のようなドレスに身を包み、超越的で近寄りがたい雰囲気があった」。別の人の話では、楽器売り場に展示中のピアノで「うみはひろいな おおきいな」と童謡「海」を弾いていたとこもあったそうだ。横浜に米兵住宅があった時代。メリーさんはエリート階級の米将校と付き合っていたという話がある。憶測だが、何らかの事情で愛を貫くことはできなかったのだろう。あの格好はセレブだった時代を忘れないための「舞台衣装」だったのかもしれない。82年、転機が訪れる。米軍の施設が建っていた本牧地区の「横浜海兵住宅地区」が日本に返還された年だ。車やファッション、音楽など米兵を通してアメリカ文化と深く関わってきた横浜の空気が変わろうとしていた。あのころ、横浜ゆかりのミュージシャンは過去を懐かしむようにさまざまな歌を作った。なぜかメリーさんを思い起こさせる歌が多かった。横浜育ちの榊原政敏さん(70)が作詞作曲した「横浜マリー」もその一つ。妻広子さん(69)とフォークデュオ「ダ・カーポ」を組み、「結婚するって本当ですか」などヒット曲を出していたが、広子さんが出産のため活動を停止。ソロ活動していたころでもあった。「メリーさんは潮風が似合う港ヨコハマの象徴。謎めいたところもいい。あの化粧は、能の役者が面をかぶることによって聖なる存在になるような儀式だったのではないか」と榊原さんは話す。確かにあの格好は様々な人の感性を刺激するのだろう。同じ横浜出身の俳優・五大路子さん(67)が初めてメリーさんを見たのは91年5月、ホテルニューグランド前。「横浜開港記念みなと祭」の審査委員席に座っていたときだ。ふと下の方を見ると、白塗りで腰をかがめながら大きな荷物を持っているメリーさんがいた。視線が合った。「『あなた、あたしをどう思うの。答えてちょうだい』と問われているようでした」強烈な印象が忘れられず、脚本家・杉山義法さん(故人)と一緒にメリーさんをモデルにした芝居作りを始める。「横浜ローザ」という題名で東京・三越劇場を皮切りに96年からほぼ毎年、ひとり芝居を演じるようになった。「メリーさんは、私たちが思い出したくない戦後の歴史や、認めたくない過去を一身に背負って街に立っていたのではないか」と五大さん。だがメリーさん自身に、そんな気持ちがあったのかどうか分からない。聞かれても無言を貫いたにちがいない。関係者によると95年12月、芽里さんは故郷の中国地方へ帰った。なぜ突然、横浜の街から消えたのか。 共感と寛容の昭和を生きて メリーさんをモデルにした音楽や小説は80、90年代からあったが、何より広く知らしめたのはドキュメンタリー映画「ヨコハマメリー」ではないか。横浜生まれの中村高寛監督(44)が99年から撮り始めた。メリーさんと接してきたさまざな人が登場するが、特に際立つのは心の支えでもあったシャンソン歌手・永登元次郎さん(故人)である。91年、関内ホールでのリサイタルの日。永登さんは楽屋入りするとき、劇場の前でポスターをじっと見つめているメリーさんにばったり会い、「もし良かったら」と招待券を渡したという。この日は1千席を超える客席がすべて埋まるほどの盛況。最後、アンコールの前に観客が次々に花束を渡す場面があったが、メリーさんはプレゼントを持って舞台まで来て元次郎さんと握手を交わした。「ゲイのシャンソン歌手。横浜のマイノリティーのアイコンというべき二人の出会いに、大きな歓声が沸き起こっていた」。中村監督はのちに著書『ヨコハマメリー』(河出書房新社)で当時の様子をそう書いている。取材を進めるうちに監督はあることに気づいた。メリーさんの荷物を預かり、着替えの場所でもあったクリーニング店の経営者にしろ、化粧品店の主人にしろ、メリーさんと同じ戦中・戦後を生きてきた世代、いわば同志のような存在だった。そのまなざしは限りなく優しかった。だがメリーさんが帰郷した95年前後、伊勢佐木町や馬車道かいわいでは商店主らの世代交代が起きていた。「次の世代からみれば、メリーさんは厄介者で排除すべき対象となった」と監督は言う。95年といえば、地下鉄サリン事件が起き、日本中が騒然とした空気に包まれた年である。日本人のメンタリティーは大きく変わった、といわれる。それまではある程度寛容だったが、理解不能な者に対しては敵意をむき出しにする。メリーさんは時代の変化を敏感に察知し、横浜の街から消えたのではないか。そのころのメリーさんはホームレスのような生活をしており、においもきつかったという。 映画のキャンペーンで全国を回った際、監督は「うちの街にもメリーさんと同じような人がいました」という話をあちこちで聞いた。津市には赤い服に赤い靴と全身を赤色で包んだ「赤いメリーさん」がいた。バスの待合室でひたすら人を待ち続けているような様子だったという。長野市の善光寺近くには「ハロハロおばさん」がいた。天気が良い日には表通りに出て通行人に対して「ハロー、ハロー」と英語で呼びかけたそうだ。され横浜である。メリーさんが愛した横浜は変わった。「独特な異国情緒があり、謎めいてい混沌としたムードは消え、きれいに再開発されてしまった。ある種の潔癖症にかかっているように思えてならない」。そう語るのは、メリーさんの写真集を出したことがるカメラマン森日出夫さん(72)。ギリシャ人船員たちがたむろしていた酒場っや、24時間営業で米兵が大勢出入りしていた「根岸家」も過去のものになってしまった。夜。晩年のメリーさんが立っていた繁華街を歩いた。ネオンの海に男も女も吸い込まれていった。 文・小泉信一 写真・仙波理

 

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