11月17日 人生の贈りもの タレント 上沼恵美子「5~8」

朝日新聞2019年11月12日30面:辞めるか、売れて抜け出すか 《淡路島の中学を卒業し、一家は上沼さんと姉の芸能活動を優先するため大阪に引っ越した》 自宅に近い高校に通いながら、姉(芦川百々子さん)とのコンビ「海原千里・万里」として仕事をする生活が始まりました。私が千里で、姉が万里です。当時の演芸の世界には女性が少なくて、大変なことばかりでした。よく出ていた劇場は大阪・梅田の一角にあったトップホットシアターという劇場だったんですが、男女関係なく楽屋が一緒。隠れるように意匠に着替えたら、先輩の男性芸人に「何を色気出しとんねん」「堂々と男の前で着替えられへんようでは、一人前になれへんぞ!」と怒鳴られました。全くおかしな話です。10代の女性が下着姿になってるのを見て平気な方が普通やないですよね。売れない時代の下積みは何年間か続きました。地方の営業も多くて、九州で南沙織さんのコンサートの前座の際は会場に着くと「君らに控室はない」と言われ、姉と2人で倉庫で着替えさせられました。もちろん南さんの控室はあって、本人はまだ到着していないのに私たちは使わせてもらえない。無名の芸人に理不尽はつきものなんやなあと思い知らされました。トップホットシアターには、年を重ねても売れない先輩方が多くて、若い私たちはいじめの標的でしたね。楽屋に置いていた化粧品を隠されたり、温めていたホットカーラーが見当たらないと思ったら、先輩が髪に巻いていたり。お姉ちゃんが出前で取ったハンバーグ弁当に、先輩が芸で使う鳥が舞い降りたこともありましたね。あれも絶対に嫌がらせやわ(笑)。そんな日常が続いて、17歳の頃には心底「辞めたい」と思いました。毎日のように「全員が敵や。辞めるか、売れてここから抜け出すしかない」と考えてたんです。(聞き手・後藤洋平) 1995年、兵庫県生まれ。タレントとして活躍し、94年と95年はNHK紅白歌合戦の司会を務めた。
朝日新聞2019年11月13日30面:お客さんが笑いについてきた 「私ら、売れるんちゃうかな」と思ったのは18歳のころ。関西のラジオ番組「MBSヤングタウン」の土曜日レギュラーで、公開録音に臨んでいた時のことです。《当時の海原千里・万里は歌まね漫才で注目を浴び、天地真理さんや南沙織さん、欧陽菲菲さんをネタにして若い女性から人気を博し始めていた》 当時、日本テレビ系で新珠三千代さん主演のドラマ「細うで繁盛期」のシリーズが放送されてました。嫁入りした主人公を、富士眞奈美さんが演じる小姑がいじめ倒すんです。私は富士さんが新珠さんを「お前っち!」と怒鳴るセリフなんかをデフォルメしてネタにしたんですが、最初は全く受けなかった。というもの、公開収録の客のほとんどは女子中学学生。嫁と小姑の争いなんかに興味はなく、客がドラマを見てなかった。ところが翌週、もう一回「細うで繁盛期」のネタを挟んだら、これがドカンドカンと受けだした。お客さんたちも「千里・万里がネタにするんやから、面白いんやろう」と、元ネタのドラマを見るようになってくれたんです。私がお客さんに合わせて笑ってもらうんやなくて、自分が誘導することによって、お客さんの方が私の笑いについてきてくれる。そういう力が見えた瞬間で、今の私の原点になりました。所属は吉本興業でも松竹でもない弱小事務所で、先輩芸人に売れている人が少なかったから、売れ始めたら色んなCMに出演させられました。桜漬け、コンビーフ、のこぎり、便器・・便器て! 私10代ですよ(笑)。一流メーカーでしたけど、嫌やったわ。人気が出ると、若い子から歓声を浴びるようになりました。アイドル漫才師のはしりは田中カウス・ボタンさんで、その次が私たち。レギュラー番組は13本。ただ、代償もありました。成績はトップやったのに、仕事が忙しすぎて普通の高校生活は送れませんでした。今思い返しても少し残念です。(聞き手・後藤洋平)
朝日新聞2019年11月14日31面:北島さんが「ウチで歌いなさい」 《海原千里・万里が漫才に織り交ぜて得意としたのが、歌ネタ。千里こと上沼さんの美声で人気を博した。下積み時代には、あの大物演歌歌手に才能を認められ、弟子入りを勧められたという》 子どものころから、素人のど自慢大会に出場していたほど、昔から歌は得意でした。下積み時代、よく行ったのが歌手のコンサートの前座で漫才をする営業でした。無名時代の15歳か16歳で、電車に揺られて富山県滑川市に行った時のこと。開幕前のリハーサルで歌を織り交ぜてたネタをしていたら、楽屋のスピーカーで聴いていた、その日のメインの歌手が、周りの人に「これ、誰が歌っているの?」と尋ねたそうです。メインの歌手とは北島三郎さん。スタッフの人が「大阪から来た若い漫才師だそうです」と返すと、北島さんは「すぐここに連れておいで」と。そんな訳で突然楽屋に呼ばれたんです。姉と2人で目の前に並ぶと、「どっちが歌ってるんだ?」とひとこと。「私です」と答えたら、「もうくだらない漫才はやめて、来月から東京に来てウチの門下で歌いなさい」とおっしゃいました。横にいたお姉ちゃんは、ものすごく不安な表情でした。そりゃそうですね。コンビとして売れないまま、相方である妹が歌手として東京に行ってしまうかもしれないんですから。丁重にお断りしましたが、大阪に帰っても何度も電話がかかってきました。「君には歌の才能がある。高校には、うちの家から通ったらいい」と。数年後に「大阪ラプソディー」が大ヒットして、北島さんから「夢がかなったね。よかった」と声をかけられた時は、ものすごくうれしかったです。あのとき、北島さんのものに行ってたら? いや、歌手として大成したかは分かりません。歌手は、どれだけ歌がうまくても、楽曲に恵まれない限り世には出られませんから。それに、私にはおしゃべりがあったから今、こういう立場にいると思うんです。(聞き手・後藤洋平)
朝日新聞2019年11月15日31面:デビュー曲 予感通りのヒット 幼い頃から、のど自慢に出ていましたし、漫才師になってからもネタの中で歌を披露していたので、レコード会社の人も「この子は歌えるよ」と認識してくださっていたそうです。それで、ビクターから声がかかりました。《1976年、漫才師として人気が出た海原千里・万里は「大阪ラプソディー」でレコードレビュー。40万枚のヒットを記録した》 当時の漫才師は、今でいうピン(1人での単体)の仕事はしなかった。だから、ほとんど私が歌っているけど、お姉ちゃんのパートも少しあります。ビクターは最初から、すごい力の入れようでした。プロデューサーは西川峰子さん、殿さまキングスさんも手がけるお方でした。作詞が山上路夫さん、作曲が猪俣公章さんのゴールデンコンビです。印象深かったのは、発売前のラジオCMでした。音がなく、ナレーションだけで「海原千里・万里、新曲、2月25日発売」。タイトルさえ告げず、これだけです。それが結構な頻度で流れた。当時は「なんで音、鳴らさへんねやろう?」と思っていましたが、確かに気になるんですよね。すごいセンスのCMやと思います。発売キャンペーンが始まると同時に「これはヒットするんじゃないか」と思いました。まず「はいからさんが通る」みたいな袴を着てリボンをつけて、のぼりを立ててた人力車に乗せられて銀座を回った。その後、大きなホテルの宴会場を使ってマスコミ向けの新曲発表会です。信じられないくらいの数の記者さんが集まりました。私、今の若い子たちからは「上沼さんは関西のローカルタレント」と思われてるのかもしれませんけど、それはちょっと心外なんですよね。千里・万里時代のレギュラーはTBSのテレビとラジオ、文化放送のラジオ、日本テレビの歌番組を含めて13本でした。結婚して主婦になった後、東京の番組は断ったけれど、全国区だから「大阪ラプソディー」ヒットしたんです。(聞き手・後藤洋平)

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