私の東京物語 【番外編】 山口 恵似子

東京新聞3月31日32面:「食堂のおばちゃん」が松本清張賞を受賞したとして、話題を集めた作家山口恵似子さん(57)。昨年連載した「私の東京物語」の文中、「私の東京物語の主役」と表現したその食堂がきょう、三十一日閉鎖する。二年前に食堂を退職した山口さんが万感の思いでつづった「番外編」をお届けします。

まさに青天の霹靂 社員食堂が閉鎖になると知ったのは去年の十二月のことだ。それまでは「事業所の移転後も食堂は存続」と聞いていたので、まさに青天の霹靂(へきれき)だった。しかし、事情を知れば納得するしかなかった。むしろ、事業所自体が困難な運営を強いられる中、よくぞ今まで食堂を維持してくれたと、感謝の念が湧いた。
とは言え、寂しい気持ちはどうしょうもない。これほど長く勤めた職場も、これほど愛着のある職場も他にない。東海道新幹線が往来するJRガード下にある「丸の内新聞事業協同組合」の社員食堂。この食堂に勤めていなければ、私は小説家になれなかった。食堂の安定した待遇が精神的な余裕を生み、脚本に見切りを付けて小説に挑戦する決断を与えてくれた。そう、孟子の言葉「恒産なき者は恒心なし」である。 そして、この食堂に勤めていたからこそ「食堂のおばちゃんは作家」と、マスコミが注目してくれた。今、テレビやラジオに出演していられるのも、すべては食堂のお陰なのだ。
私が「七十歳まであと十四年しかない。全力で書かないと後悔する」と、食堂を去って二年。 二年の間に食堂はずいぶん様変わりしていた。閉鎖に備えて備品が整理され、カウンターの下にも戸棚の中も空間が広い。ぎっしり物が詰まった光景しか見たことがなかったのに。 スタッフはAさんとKさん二名を残すのみ。二人とも私が急遽主任を引き継ぎ、食堂改革に全力を注いだとき一緒に頑張ってくれた”戦友”で、一番気心の知れた仲間だ。会えばちっとも変わらないが、この二年でAさんは孫が三人増え、Kさんは初孫を授かった。 壁のカレンダーには赤鉛筆で一日ごとに×印がつけられていた。三十一日に×がついたところで、食堂の歴史は終わる。
壁の日めくりカレンダーは、まだたっぷり厚みがある。新聞が朝夕刊休むのは一月二日だけだがから、食堂が一日閉まるのも一月二日だけだった。このカレンダーが分厚い元旦から、最後の一枚になる大晦日まで、食堂は毎日ご飯を作ってきたのだ。

お客さんは身内同然  ここで働いた十二年、色々なことがあった。悔しいことや悲しいこともあったけど、思い出すのはいつも楽しいことだ。特に主任になってからの二年間は特別だ。 私は雇われてる身ではあったけど、”私の食堂”と思っていた。社員食堂だからお客さんも身内同然だった。ポケットマネーでマグロのサクを買って”ヅケ散らし”を作ったり、ケーキやフルーツを出したり。お客さんに喜んでもらえるのが嬉しくて仕方なかった。
大雪の早朝、近所の格安店で仕入れた食材をリュクで背負って駅に向かう途中、滑って転んでひっくり返り、亀のように起き上がれなくてジタバタしたことも、今となっては笑えるネタだ。
有楽町に都庁があった頃は事業所も食堂もガード下も大盛況だったそうだ。今やシャッター街になってしまった路地も、両側はすべて飲食店で、麻雀荘が六軒もあった。事業所も百名以上の従業員を抱え、毎月イベントを催してお祭り騒ぎをするやら、海外旅行をさせるやら、それは豪勢だったらしい。
私が勤めていた間も、残り少ない店が次々に閉店していった。シャッターの閉まった店舗もあれば更地になった店舗もある。 それを見ると昔の姿がおぼろげに思い出される。私もいつかこの食堂の跡地を見て、往時の食堂を思い出すのだろうか。
二年前、スタッフは泣いてくれたけど、私は笑って食堂を去った。いつでも戻ってこられると思っていたからだ。この食堂には十二年では足りない、私の人生の半分が詰まっている。 それが無くなってしまうなんて。もう還る場所がないなんて。故郷の村がダムで水没するようなものかもしれない。でも、私の故郷は水の中ではなく、想い出の中にある。いつまでも。

朝日新聞ASAの伸光堂西部販売 森林文化協会

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