寂聴 残された日々

朝日新聞3月11日35面:5年前、私は88歳だった。はじめての圧迫骨折で京都・寂庵(じゅくあん)のベットに5ヵ月も寝て暮らし、全身体力が衰え、歩けなくなっていた。そんなある日、ベットで見ていたテレビに、突如として東北の地震と大津波の様子が映った。 現実としても見えず呆気にとられていると、つづいて福島の原発事故が映り、気がついたら、私は誰の手も借りず自分でベットを下り、すくっと立っていた。「原発ショック立ち」だとスタッフに言って、もう寝てなんかいられないと、歩くリハビリに熱中した。それでも飛行機や列車に乗れるようになったのは6月になってからだ。 6月のはじめ、名誉住職を務める岩手の天台寺で青空説法を久しぶりにした。4千人ほどの聴衆に中には天台寺のある二戸市浄法町から東海岸沿いの被災地に嫁いでいて、命からがら故郷の生家に逃げ帰った人々の顔も見えていた。 その翌日から車で被災地を訪ねる旅に出た。
51歳で出家して、晴美が寂聴になって以来、私は日本のどこかに天災の被災があると、直ちに有り金をかき集め、誰も誘わず1人で被災地へ飛ぶ。新仏に向かって下手なお経をあげ、けが人や病人を見舞い、突然の天災で様々な被害にあった人々の苦労や、愚痴を聞き、手をとりあって、一緒に泣く。疲れ切った人の肩を揉み、体をなでさする。「あぁ、気持ちが楽になった」という被災者のため息のような声を聞くと、来てよかったと思う。持って来たお金は、その村や町の責任者へ渡す。 その程度しか私の力では出来ない。それでも、それをつづけているうちに、辛い身の上の苦労を打ち明けられ、一緒に泣いてあげれるだけで、相手は「あきらめていたけど生きていく力が出てきた、ありがとう」と言ってくれる。
私は小説よりあんまがうまい。私の出た四国徳島の県立の高等女学校は、5年の学業が終わり卒業する間際に、町の本職のマッサージ師やあんまさんを呼び込み、卒業予定の全員に基本的術を習わせる。それを受けない者は、卒業させてくれない。 私の卒業の時、200人の卒業生の中で一番上手だと本職さんたちに認められたのが私であった(ホント!)。その名誉を得た者は、校長先生を揉んで卒業する。習った術の最後は、頭を10本の指先で軽く叩いて終わる。私は校長先生の薄い髪の頭を叩いて卒業したのである。そんな話をしながらあんますると、される人も、まわりの人も笑いだし、場が和やかになり、気がつくと、ずらっと、私のあんまを待つ人の列が出来ている。 その人たちとの手紙のやりとりが始まり、つづき、今もつきあいがつづいている。まだ仮設住宅に居つづけている人も、子供の住む他県に移った人も、力尽き、亡くなった人もいる。この5年間に私も老いつづけ、病の日が多くなり、93歳(あと2ヵ月で94歳)になってしまった。 もう何が起きても、被災地に駆けつける体力はない。あの人たちも私に劣らず老いている。 生きているうちに、不自由な仮設住宅から出てもらいたいものだ。*作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんによるエッセーです。

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