9月6日 又吉直樹のいつか見る風景

朝日新聞2017年9月2日Be9面:代田橋界隈(東京都世田谷区・杉並区) オシャレな幻想の街で会ったカッコ良くない二十歳の自分 「代田橋に引っ越したの」という一言がずっと耳の奥に残っている。その言葉は自分に向けられたものでさえなくて、クラブで踊っていた名前も知らない若い女の子が僕ではない他の誰かに言った言葉だった。その日、二十歳になったばかりの僕は人生で初めて音楽が爆音で流れるクラブという空間に行った。どんな環境かもわからないまま。コントをやらせてもらえると聞いて、知り合いに誘われるまま出向いたのだ。
そこに集まった自分と同世代の若者達はみんなオシャレで、初対面でも友達のように親しげに会話を交わしていた。あらゆるものがキラキラしていて、自分以外の全ての人が洗練された特別な存在に見えた。場の雰囲気に圧倒されながら、用意したコントを舞台上で披露すると、少しの笑い声と罵声と嬌声が入り交じった複雑な反応を浴びせられた。僕達のコントが終わると、すぐに次の音楽のイベントが始まり、爆音で流れる音楽が、僕達がコントをした時間を無かったことにしているように思えた。
いつか行きたい 敗北感に包まれながら時間が過ぎるのを待っていると、一人の女の子が僕に話し掛けてきた。女の子は鮮やかな青いトレーナーを着ていたので薄暗い空間でも抜群に目を引いていた。その女の子はコントの感想を僕に伝えると、カウンターでお酒を注文して、またフロアーの中心に戻っていった。
イベントが終わり、外に出ると、朝日がまぶしかった。駅までの道を歩いていると、その青いトレーナーを着ていた女の子が、「またみんなで遊びましょうね」と遠くから僕に声を掛けてくれた。その時、誰かが、その女の子に「どこに住んでいるの?」と聞いた。すると女の子は、「代田橋に引っ越したの」と答えたのだ。その瞬間の印象で、僕にとって代田橋は優しくてオシャレな女の子が暮らす幻想の街になった。いつか自分も人に見られても恥ずかしくない洋服を買って、格好良くなったら代田橋に行こう。そうしたら、偶然あの女の子に会えるかもしれないと思った。それから十五年以上が経ったが、いまだに「代田橋」と聞くたびに、その時のことを思い出してしまう。まだ僕が行ってはいけない幻想の街だ。車で駅前を通ることはあっても、降りて歩いたことはなかった。
なぜか落ち着く 今年の夏、初めて代田橋を歩いた。駅前の商店街には楽しそうな飲み屋さんが数件並んでいる。おもわずお客さんの顔を覗いてしまう。大通りを越えると、小さな「沖縄タウン」がある。この辺りがまた風情があって良かった。酒屋さんでも泡盛が並んでいたし、奥まったところに沖縄料理の店があったりもする。軒先では子供達が全力で遊んでいて、どこか妙に懐かしさもあって落ち着く。カキ氷を売っていた店があって、そこでこの夏初めてのカキ氷をいただいた。遠慮気味に練乳をかける僕に対して、お店のお母さんが「もっと練乳かけた方がいいよ」と言ってくれた。
「この優しさはもしや?」と思い、お母さんの顔を盗み見たが、そこにかつての青いトレーナーを着た女の子の面影はなかった。そりゃうそうだと自虐的に笑えた。こんな居心地の良い街ならもっと早く来てみれば良かった。自分で勝手に意識し過ぎて遠ざけていたことを後悔した。
その数日後、また一人で代田橋を訪れた。カフェで書き物をしたり、辺りを散歩したりした。その時に思い出したのだけれど、その青いトレーナーを着ていた女の子を、僕は一度だけ原宿で見たことがあったのだ。その女の子は友達と何人かで歩いていて、僕はとっさに隠れてしまったのだった。そんなことは、すっかり記憶から消えて「代田橋に引っ越したの」という声だけがいつまでも残っていた。
そんなことを不思議に思いながら、井の頭通りを歩いていると、「いま、ちょうど又吉さんの話をしていたんです」と男女に声を掛けれた。その女性にも、あの時の女の子の面影はなかった。結局、あの女の子には会えなかったけれど、二十歳の自分とは会えた。汚い服を着て、ずっとこっちを見ていた。
(芥川賞作家・おい笑芸人)


メモ 「代田橋」と呼ばれた橋は、いまは跡形もない。京王線代田橋駅(東京都世田谷区)に、その名を残すのみである。駅の北西約100メートルで玉川上水にかかっていた甲州街道の橋だったが、上水が暗渠(あんきょ)となり、なくなった。かつて橋があった場所と目と鼻の先ある朱塗りの門が、「沖縄タウン」(同杉並区)の入り口だ。そこから約400メートルにわたって延びる路地は、もともと、「和泉明店街」という商店街だった。界隈が寂れかけた12年前、「沖縄化」をコンセプトとした町おこしで生まれ変わった。なかでも、こぢんまりとしたアーケードがある「めんそ~れ市場」は、沖縄風の両店や酒場、三線の店が軒をつらね、ウチナー気分を心おきなく浸れる一角だ。

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