9月30日てんでんこ 音楽の力【25】

朝日新聞2017年9月23日3面:歌えなくなっても、Jポップシンガーだった磯部俊行は、被災地に通い続ける。「歌って、すげえ」。Jポップバンド、サスライメイカーの元ボーカル磯部俊行(40)が実感したのは東日本大震災直後、岩手県宮古市田老や同県大槌町を訪ねた時のことだ。物資を届けた避難所や個人宅で、「歌わせて」と頼んだ。「気分じゃない」、時には「帰れ」と言われた。でも粘った。アーティストの端くれの自分ができる精いっぱいのことは歌うことなんです。すると、昼間から酒を飲んでいた男たちが聴き入った。女性が「みんな、呼べばよかった」と話し、妻と娘を流された男が「また来いよ」と言った。
「歌にできることがある」。そう思うと、やめれなくなった。2ヵ月に1.2度、通い始めた。「まだそんな時じゃない」。初めはバンドの2人の仲間にも止められた。構わず続けると、今度は「震災アーティスト」「売名」と揶揄する声も。路上や小さなライブ会場を巡る若手にしては、とっぴな行動だったのだろう。でも21歳で会社を辞めて続けてきて、初めて実感した歌の力。手放したくなかった。
「彼は何度も何度も通ってきた」。田老出身で同県滝沢市に住む高橋恵美子(68)らが案内役を買って出た。磯部はカンパで漁船を買い、田老魚協に贈った。昭和津波の語り部をする高橋の母(92)の詩に曲を付けた。だが、そのころからだ。のどがおかしくなった。ライブの途中で声が出なくなった。長い不規則な生活で肺を傷め、苦しくて眠れない。リハビリも入院も効かなかった。バンドを解散し、15年8月、歌手活動を辞めた。
悔しくないわけではない。でもいまは、田老を応援する「食と音楽のフェス」の準備に熱中し、岩手に通う。音楽とともに、岩手で実感した豊かな海や台地の恵みを紹介し、味わってもらうイベントだ。生産者、料理人も舞台に登場させ、語り合ったらどうだろう。資金作りのため1月、神奈川県茅ケ崎市に仲間と会社「茶碗とお椀」を立ち上げた。手始めに田老産ワカメを粉末にした調味料「かわめソルト」を売り出した。
7月12日の夜、高橋の夫が運営する滝沢市のそば道場で「ちょっとだけ」とギターを手に取った。「僕に何ができるだろう」。そっと語りかける声が響いた。一緒に沿岸支援に通った仲間たちが涙していた。(伊藤智章)

朝日新聞ASAの伸光堂西部販売 森林文化協会

ご予約・お問い合わせはお気軽に

Tel0120-740-276

〒352-0011 埼玉県新座市野火止8-14-29

ページトップへ戻る