9月21日てんでんこ 音楽の力【20】

朝日新聞2017年9月16日3面:迷った鳥羽一郎。「ありがとう」と言われ、自分が励まされている気がした。 演歌歌手の鳥羽一郎(65)が東日本大震災の被災地に入ったのは、2011年4月末だ。多くの歌手が続々入っていた。デビュー前、漁船員だった鳥羽は、東北の港町をよく知っている。すぐ誘われたが、迷った。こんな大変な時に歌なんて、しのびないなあ。
熱い気持ちはある。「交通事故の遺児と違い、支援が少ない」。そう耳打ちされて始めた海難遺児支援のチャリティーコンサートは30年で87回を数えている。でも今回じは・・・。
1995年の阪神大震災の時は大阪市のホテルの21階に泊っていた。突き上げる揺れにテレビが吹っ飛んだ。横浜で新築中だった自宅の完成は見られないと覚悟したものだ。心の底から恐怖を味わった人たちを前に歌ってどうなる。直前の11年2月、鳥羽も母を亡くしたばかり。ヒット曲「兄弟船」は波に揺られる漁師を歌うが、「津波を連想させる」と言われると、あっさり封印した。
被災地にはNHK番組の収録で宮城県の石巻市と女川町へ入った。基礎だけになった集落跡、泥だらけの街。あまりの変わりように息をのんだ。「顔だけ見せてくれ」と頼まれると、断れ切れず避難所に寄った。「よう来たな」。肩をたたかれた。人恋しいんだなと思うと、胸にじんときた。
「生きていたか」。抱き合ったのが、当時、県漁協の経営管理委員会長だった木村稔(77)だ。かつて魚を根こそぎ捕る底引き網魚を妨害しようと、大量の廃車を海に沈め、零細沿岸漁民を守ろうとした熱血漢。ウマが合い、公演に行くたび、よく飲んだ騒いだ。
その木村も高校生の孫を津波で亡くし、息子の妻の遺体も長く見つからなかった。自宅2階まで水が入り、網小屋暮らしだ。それでも漁業再建に奔走していた。がれき処理、海の放射能汚染、復興特区で漁業権の民間開放を唱える知事との対立・・。
11年6月6日、鳥羽は両市町を再訪した。自前のトラックでいなりずし、餅を千個、友人の歌手、吉幾三さんらに頼んで集めた雨がっぱや長靴など漁師の七つ道具を50人分届けた。石巻市ではコンビニ駐車場で歌った。「ありがとう」と言われると、こっちが励まされている気がした。合間に木村の網小屋に寄った。奥野小さな祭壇に線香をあげた。木村が目頭を押さえ、飛び出していった。(伊藤智章)

朝日新聞ASAの伸光堂西部販売 森林文化協会

ご予約・お問い合わせはお気軽に

Tel0120-740-276

〒352-0011 埼玉県新座市野火止8-14-29

ページトップへ戻る