9月16日てんでんこ 音楽の力【16】

朝日新聞2017年9月12日3面:「おまえ、先に行け」。坂田明を尊敬する夫は、城山に登ってこなかった。 菅谷あや(60)はスーパーの惣菜作りのパートを終え、岩手県大槌町の自宅に帰ったばかりだった。2011年3月11日午後2時46分、激しい揺れに裸足で飛び出した。揺れが収まって家の中に戻ったが、近所の人たちが高台に避難していくのを見て、夫の義隆(当時62)の持病の薬と朝食の残りのパンをテーブルの上に置き、避難の準備を始めた。そこへ義隆が外出先から戻ってきた。元町議だった義隆は、知り合いの情報から「津波は3メートルぐらいだから逃げなくても大丈夫だ」と言う。「大事を取って避難しましょう」と繰り返すあやに、義隆は「おまえ、先に行け」と、なかなか動こうとしない。
「必ず来てね」と念を押して城山の高台への坂道を登り始めた時、「急げ」と上の方から声がした。振り向くと黒い壁のような津波が迫っていた。あわてて城山の頂上にたどり着き、眼下を見ると災に包まれた自宅が濁流に漂っていた。夫は登って来なかった。
現実を受け止められず、何も考えられなかった。「なんで無理やり、引っ張ってでも連れてこなかったんだろう」。数日間、知人宅を転々としたあと、避難所から、夫を捜しに遺体安置所に通う日々が続いた。あやと義隆は十数年前、町内のジャズ喫茶「クイーン」で出会った。「ジャズのことなんて何も知らなかった」というあやは、3人の子をもうけた最初の夫と離婚していた。「傷心の40代の女が、誰にも話しかけられずに暗がりの中、独りで過ごせる貴重な場所」として、ジャズ喫茶はうってつけだった。
人口1万5千人余りの小さな海辺の町。離婚のことは隠しきれなかったし、カウンターの端の定席で、黙って悩みを聞いてくれるひげ面のマスター佐々木賢一(75)の存在もありがたかった。そこが県内一の老舗ジャズ喫茶であることは後で知ったが、毎晩のように通ってくる、ニコニコ顔で口数の少ない町職員の義隆に不思議とひかれていった。
2014年春、末娘の高校卒業を待って再婚した。毎年のように店に来て「訳の分からないフリージャズ」を奏でる坂田明(72)が、「夫が最も尊敬する偉大なミュージャン」であることも、結婚してから知った。(本田雅和)

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