8月23日 戦争孤児 秘めた地獄

朝日新聞2018年8月18日35面:放浪2年 盗んで食べて傷ついた 戦後12万人超 偏見恐れ沈黙 戦後しばらく、各地の駅や公園には寝泊まりする子どもたちの姿があった。空襲や戦闘、病気で親を亡くした孤児たち。国が終戦直後に行った全国調査では、その数は12万人。それ以降の調査は見当たらない。焼け跡に残された子どもたちは、その後をどう生きたのか。 生後3ヵ月、5ヵ月、2歳、16歳・・。京都市下京区の大善院に、8人の子どもたちの遺骨や遺髪が安置されている。住職の佐々木正祥さん(64)が20年ほど前、本堂の裏の物置で古い木箱に入っているのを見つけた。木札には「昭和23~28年死亡」と記され、「伏見寮」の墨字があった。京都駅にはかつて親を亡くした子どもたちがあふれ、「駅の子」と呼ばれていた。市内には戦後の一時期、戦争孤児を預かる施設があった。伏見寮もそのひとつ。佐々木さんは供養する会を始めた。かつて寮にいて、戦後70年を経て、体験を打ち明けてくれる人にも出会った。
京都市左京区の小倉勇さん(86)は1年ほど伏見寮で暮らした。13歳だった1945年7月、福井・敦賀の空襲で母を亡くし、翌年2月、父が病死。食糧難の時代、身を寄せてた伯母は冷たく、各地を転々とした。親でいく子を何人も見た。8歳ぐらいの女の子。やせ細り、裸足を真っ赤に腫らして、大阪駅前で力尽きた。福井駅で出会ったひとつ年下の「かめちゃん」。盗みをしては、闇市でカレーや肉まんを分け合った。東京・品川駅近くで電車に飛び込んで自殺した。小倉さんは2年の放浪の末、京都駅で保護された。緑内障の適切な治療を受けられず、左目を失明した。「歯を食いしばっても泣いても、世間は冷たかった。地獄でした」。社会への不信感から、黙っていようと決めた。
那覇市の柳田虎一郎さん(80)は、孤児としての戦後を妻や子どもにも話さなかった。「何のために生まれたのかと思ってきたから。苦しんだ日々を話して心配かけたくなかった」6歳だった44年、パラオから日本へ向かう途中にフィリピンで戦闘に巻き込まれ、母と生後数日の弟を失った。翌年、引き揚げ船で末の妹が息を引き取った。もう一人の妹と姉は養子に。復員した父と2人、母の故郷の沖縄で暮らし始めたが、中3の冬、父が病死した。
米軍人の靴磨き、皿洗い、皆との荷役・・。深夜まで働いた。市場で野菜の切れ端を拾い、水道水で腹を膨らませた。元軍人や遺族には恩給などが出ていた。役所を訪ねると「子どもが来る所じゃない」。補償を求め、琉球政府や日本政府に何度も手紙を書いたが、返事は一度もこなかった。再び声を上げたのは70歳を過ぎてから。南洋群島戦闘に巻き込まれた住民らが、国に損害賠償と謝罪を求める訴訟に加わった。「国に捨てられた。苦労かけたと認めてもらうまで、私の戦争は終わらない」
旧厚生省が48年2月にまとめた「全国孤児一斉調査」によると、空襲や病気で親を亡くした孤児は12万3511人。ただ、養子に出された子や米軍統治下の沖縄は調査に含まれていない。その後、国が調査したかは「把握できていない」(厚生労働省担当者)という。敗戦翌月、政府は「孤児育成に熱意がある善良な家庭」に保護や養子縁組を求める方針を決めた。だが、混乱期、家庭に余裕はなく、街に孤児があふれた。戦争孤児の研究をしている立命館宇治中高(京都府)教員の本庄豊さん(63)は「国は次第に取り締まりに傾き、救援の意識が薄れていった」と言う。48年9月に閣議決定した対策では「浮浪児根絶」が掲げられ、≪浮浪児に対する安価な同情が浮浪児生活を可能にしている≫ ≪保護取り締まりを徹底的に≫ と記された。
偏見や差別を恐れた孤児たちは、沈黙した。本庄さんら研究者は2年前、孤児の戦後を聞き取る調査を始めた。広島や長崎、愛媛、京都、沖縄・・。次は東京を訪ねる。閉ざされた記憶に向き合い、記録に残す試みは始まったばかりだ。(安田桂子)

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