8月21日 戦後5年「赤紙」また

朝日新聞2018年8月17日31面:朝鮮戦争 魚雷におびえ軍人輸送 占領下米軍に口止めされた遺族 あの敗戦からわずか5年。不戦をうたう平和憲法ができてまもなく始まった隣国での戦争に、日本人は深く関与していた。南北、米朝の首脳会談で、終結への期待がにわかに高まった朝鮮戦争。今も日本のかかわりの全容は、明らかになっていない。魚雷攻撃に備え、枕元にライフジャケットを置いて寝た。角山安笔さん(96)=佐賀市=を乗せた船が朝鮮半島に近づく。1950年8月。角山さんにとって2度目の「戦地」だった。太平洋戦争中は、旧日本海軍にいた。44年11月、神奈川・横須賀から航空母艦「信濃」に乗って広島・呉に向かう途中、米潜水艦の魚雷を受けた。計4発。傾く艦体から海に飛び込んだ。
敗戦から5年。再び交戦する海域へ身を投じるとは思ってもみなかった。戦後、旧運輸省航海訓練所の教官となり、帆船「海王丸」で実習生と航海に出て、船乗りを育てていた。その海王丸が韓国行きを命じられたのは、朝鮮戦争が勃発して2カ月後。軍人らの輸送が目的だった。「そりゃ怖い。でも、米軍のいうことは絶対。行きたくないなんて言えなかった」海王丸は3度にわたり、米軍人や韓国人ら計2013人を運んだ。航海日誌には、仁川に停泊していた50年10月14日朝、北朝鮮機により仁川港と船舶が攻撃されたという記述が残る。角山さんは任務を終えて長崎・佐世保に戻り、ほっとしたことを覚えている。「また、生きて帰れた」
□    □  防衛省防衛研究所の調査では、朝鮮戦争で軍人や軍需品の輸送、機雷の掃海などに動員された日本人は確認できただけで約8千人。調達庁(旧防衛施設庁の前身)がまとめた「占領軍調達史」では、開戦から約半年で船員や港湾労働者ら56人の日本人が死亡したとされるが、こうした史実はほとんど知られていない。開戦時、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下にあった。海上保安庁職員は極秘裏に機雷掃海を命じられ、犠牲者も出た。遺族は米軍から「口外しないように」と言われた。平和憲法の施行3年後に起きた実態は、当時の海上保安庁長官が78年に手記を出すまで明らかにならなかった。
米軍は「国連軍」として朝鮮戦争に兵を出した。その医療行為に日本赤十字社の看護師らも投入された。「君たちに赤紙が来た」。50年暮れ、牧子智恵子さん(92)=東京都練馬区=は勤務先の福岡県内の国立病院で、事務長から告げられた。女学校時代は地元・佐賀の工場で機関銃の弾を磨く仕事に動員された。戦後、山口県にある日赤看護師の養成所を卒業し、働き始めた矢先だった。派遣先は福岡市内の「国連軍病院」。傷ついた米兵たちがベッドに寝かされていた。手術の準備や消毒をする生活は約1年続いた。「傷病兵には、日本人も交じっていた」と牧子さんは証言する。「やっと終わったはずの戦争に、また大勢の人が巻き込まれた。個人の意思が無視され、命が奪われる。戦時中の空気そのものでした」
米軍の武器を造った日本国内の工場もあった。その一つ、大阪府牧方市の「小松製作所(コマツ)」大阪工場は、52年の発足から55年まで砲弾の製造を続けた。「造っても造っても追いつかない状態。まさに『特需』やった」。製造に携わった元社員の80代の男性=大阪府=は振り返る。プレス作業を担当。火薬を入れるために別の場所にトラックで陸送されていたが、先輩から「口外してはいけない」と言われていた。社史によれば、砲弾の売上高は55年の受注終了までに約160億円に達した。工場発足時に約300人だった従業員は、54年に千人を超えた。男性は「戦争の道具を造っていたと今思えば恐ろしいが、当時は喰うにも困る時代。戦争に協力しているとか、考える余裕もなかった」という。朝鮮戦争特需をきっかけに、日本は経済大国への道を歩んでいった。
(安田桂子、大部俊哉)

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