8月21日 平成とは バブルの残映「1」

朝日新聞2018年8月15日夕刊6面:輝くタワーの下で 東京タワーのライトアップが日常の風景となったのは、平成が始まる1989年である。戦後復興のシンボルながら鉄骨の白熱灯は暗く、球切れが絶えなかった。開業30年のリニューアルを任された照明デザイナー、石井幹子(79)は都市の初め、約150台の投光器を冬空に向ける。高圧ナトリウムランプが、その塔を暖かなオレンジ色に染め上げた。
天皇逝去による数日の中断を挟んで、タワーは夜も首都の顔になった。夏は投光ランプが白色に替わり、涼感が舞い降りる。東京湾岸に林立した高層住宅では、よき時代の残映、輝くタワーを望める部屋が人気だ。バブル以降、夜景は資産価値の一つになった。「都市を照らす仕事に自信を持っていた頃、照明一つで多くを変えられると確信しました。将来には何の不安もなかった」と石井。85~90年の作品集には「光無限」の題がつく。個人も会社も、どこか突き抜けた楽観に満ちていた。
私はといえば30代前半の働きざかり。世界のカネが集まる日本の中心で、「経済記者としてデカイ仕事がしたい」と思っていた。入社は、日本の自動車生産が米国を抜いた80年である。バブル絶頂期の地上げを福岡で取材し、東京の経済部にやってきた。金融担当としての初仕事は89年夏、日本経済新聞のスクープに始まる三井銀行と太陽神戸銀行の合併話だ。三井の支店で行員の話を聞き、夕刊社会面に「寝耳に水の大型合併」を書いた。
都市銀行間の縁談は16年ぶり。自由化と国際競争のなか、どこも良縁を探っていた。かくして私たちは、輝くタワーの下、「次」を求めて奔走することになる。13あった都銀の大半は、やがて三つのメガバンクに集約されていく。日本経済の七転八倒が、幕を開けようとしていた。 =敬称略 🔶バブルに踊り、その崩壊に慌てたのは記者も同じだった。 (元朝日新聞特別編集員・冨永格)

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