8月16日 満州敗走 母子救えず

東京新聞2018年8月11日24面:元関東軍歩兵 稲川寅男さん(94) 「円匙でタコツボを掘ってね。ここが自分の死に場所になると思ったよ」東京都江戸川区の稲川寅男さん(94)の自宅を訪れた私は、聞き慣れない言葉に少し戸惑った。入社4年目で初めてとなる戦争体験の取材。スコップ(円匙)で縦穴(タコツボ)を掘り、ソ連軍との戦闘を迎えた73年前の夏の体験に、じっと耳を傾けた。1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍が満州(現・中国東北部)に侵攻。関東軍の歩兵第三七〇連帯に所属していた稲川さんは、仁丹江近郊で日本人開拓民の保護を命じられた。13日昼、縦穴に身を潜める中、ソ連軍の戦車がごう音と共に街道を進んできた。武器・弾薬は欠乏し、最新鋭の戦車に対抗できる状況にない。仲間たちが縦穴から飛び出し、爆弾を抱えて戦車に飛び込む肉弾攻撃を仕掛けたが、厚い鉄板に覆われた戦車が一瞬、宙に浮いただけだった。14日は、遮るものがない草原での銃撃戦。「ヒュン、ヒュン」。銃弾が顔の近くをかすめ、兵士たちが次々倒れた。「稲川、本部に上がれ!」。丘の上にある本部との連絡係だった稲川さんは、上官の命令で伍長と交代して前線を離れた。翌15日まで戦闘が続いた後、部隊は撤退。日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したことも知らなかった。伍長はその後、戦死したという。
「罪ない市民犠牲おかしい」 死と隣り合わせの経験は、平成生まれの私には想像ができない世界だった。高校を出て会社員をしていた稲川さんは20歳を迎えた43年に微兵され、ソ連との国境警備の部隊に配属された。「お国のために戦う自負があった」。だが、実際の戦闘では撤退を余儀なくされ、山の中を逃げ回った。「前線で死んでいれば、こんなつらい思いをしなくて良かったのに、と悔やんでね」。やや早口で話す稲川さんがある場面を思い出した時、重い口調に変わった。「助けて」。夜に山中を移動していると、ぼろぼろの和服を着た開拓民の女性と遭遇した。衰弱しきった様子で赤ん坊を抱き、かばそい声で懇願された。「子どもだけでも連れていって」。だが、ソ連軍の追撃におびえ、食糧も枯渇した稲川さんは数十人の兵士とともに立ち去った。
開拓民保護の命令、国のために戦う自負・・。実際は自分の命を守ることしかできなかった。しばしの沈黙の後、稲川さんは続けた。「罪のない市民や下っ端の兵士が犠牲になる戦争は、やっぱりおかしい」9月末にソ連軍に捕まり11月にシベリアの捕虜収容所に連行された。2年近く労働を強要され、47年9月、引き揚げ船で京都府の舞鶴港に戻った。帰還後、三つ上の兄の戦死を知らされ、無念さが込み上げた。
取材の後、稲川さんに駅まで見送ってもらった。日差しが照り付ける中、「毎年夏になると、からっとした暑さだった満州を思い出すよ」とつぶやいた。隣を歩きながら考えた。73年前の戦地で私は生き残れただろうか。女性と赤ちゃんを助けただろうか。個人の力量や思いなどを超えた戦場の残酷さ。想像すら難しいが、忘れてはいけない過去がある。「生きて帰れたことは運が良かった。平和に幸せに暮らせることがありがたい」。そう話す稲川さんの思いを、伝えていくことはできる。 (大島宏一郎)26歳整理部

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