8月11日 「餓死」の島 戦争マラリアの悲劇 「上」

東京新聞2018年8月5日1面:飢えと病の地獄があった 「宮古ブルー」と呼ばれる透き通る青い海とサンゴ礁に囲まれた沖縄県・宮古島は今、建設バブルの真っただ中にある。沖縄本島から南西に約290㌔。宮古、伊良部、下地など六つの島からなる宮古島市は、さいたま市とほぼ同じ面積(約200平方㌔)に約5万5千人が暮らす。あちこちで高級リゾートホテルやアパートの建設が進み、人手不足のため島外からも建設作業員が集まる。
宮古島と伊良部島とを海上でつなぐ全長3.5㌔の伊良部大橋は3年前に開通し、絶景スポットとして人気を集める。大型クルーズ船の就航数は急増し、伊良部島に隣接する下地島空港は来春、国際空港化される。2015年度に約50万人だった観光客数は本年度100万人を突破する勢いだ。島中央部では、陸上自衛隊宮古島駐屯地(仮称)の隊舎などの工事も始まり、近い将来、警備部隊やミサイル部隊などが配備される。「島では軍隊と『カジノ』がやってくるとささやかれています」。駐屯地前で毎朝、抗議活動をしている上里清美さん(62)が皮肉交じりに語る。
急速に変貌する宮古島では、沖縄戦の記憶が風化しつつある。戦時中、そこには3万の日本兵がいた。旧平良市などで構成した「宮古市町村会」が戦後50年の1995年に発刊した『太平洋戦争における宮古島戦没者名簿』には、この島で戦没した約2千人の軍人・軍属の名前が都道府県別に記されている。その大半は、東京や神奈川、愛知など島外出身者だ。沖縄本島のように地上戦がなかったにもかかわらず、島で一体、何が起きていたのか。島内の歌碑に、73年前の光景が刻まれていた。「補充兵われも飢えつつ餓死兵の骸焼きし宮古よ八月は地獄」 (編集員・吉原康和)


1面から続く27面:軍医すべなく戦病死2500人  宮古島の中央に位置する野原岳(標高110㍍)には、海上自衛隊の宮古島分屯基地があり、南西空域を監視している。戦時中、ここには陸軍第二十八師団が司令部を構えていた。<補充兵われも飢えつつ餓死兵の骸焼きし宮古よ八月は地獄>。島の悲劇が刻まれた歌碑は野原岳の麓にある。この短歌は1981年、朝日新聞い投稿され、高い評価を得た。作者は44年秋から1年半、衛生兵として島に駐留した高沢義人さん(故人)だ。復員後、教員や千葉県松戸市議を務める傍ら、島での経験を詠み、歌集を出版。込められた反戦の思いに心を打たれた、歴史教育者協議会宮古支部の仲宗根将二さん(83)と交流が始まった。高沢さんは仲宗根さん宛ての手紙に「毎日、飢えながら、栄養失調でマラリアで亡くなった兵士を荼毘に付していました」と当時の惨状を記し、「兵隊は現地で悪いことをしていたので、私はもう宮古島へは行けません」と伝えた。
「悪いこと」とは、住民の食料を盗み喰いしていたことだという。仲宗根さんの説得で、高沢さんが島を訪れたのは終戦翌年に島を離れてから52年を経た98年。歌碑は2005年に仲宗根さんら島の有志が建立した。サンゴ礁が隆起してできた小さな島に43年秋から日本兵約3万人が駐留し、海軍と陸軍の飛行場が三つ建設された。島は軍人と住民の雑居状態だった。島で新聞を発行していた瀬名波栄さんが出版した「先島群島作戦(宮古編)」では、戦病死した日本兵は2569人とされ、9割はマラリアと栄養失調が原因としている。沖縄戦が本格化した45年4月以降に限っても、島で戦病死して靖国神社に合祀された軍人・軍属は900人以上で、空襲や艦砲射撃などによる戦死者の3倍にのぼることが本紙の調査で判明している。
戦病死者が多かった理由を、島の医師、伊志嶺亮さん(85)は「疎開者を除き人工約4万人の島に3万人の兵が来たのだから、食糧不足が一番大きい。死因は飢餓とマラリア感染による複合的要因だ」と指摘する。終戦直後に弟をマラリアで亡くした元沖縄畜産会事務局長の久貝徳三さん(84)は「自宅近くの陸軍病院前で、焼却場に運ばれる兵隊の遺体を毎日のように見た。兵隊たちが話す『マラリア』という言葉をよく耳にした」と語った。仲宗根だんは歌碑を前に、当時軍が置かれた絶望的な状況を指摘した。「制海権と制空権を米軍に奪われ、内地からの輸送は途絶えた。武器弾薬はおろか、食料も医薬品も届かない。マラリアに侵されても、医薬品がないから、120人の軍医を擁しても、なすすべもなかった」(編集員・吉原康和)

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