7月5日 みちのものがたり ペトロ岐部殉教への道(大分県)

朝日新聞2018年6月30日be6面:「司祭になる」一路ローマへ 長崎はその日、あいにくの雨だった。2008年11月24日、長崎県営野球場でローマ法王庁主催のカトリックの儀式、列福式が行われていた。尊崇の対象となることを認められた「福者」に祈りが捧げられる。式が進むと雨もやみ、長く歴史に埋もれていた殉教キリシタン188人に、光が当たった。その代表、ペトロ岐部(1587~1639)。いまの大分県国東市に生まれたキリシタンは、追放されたマカオから海路や砂漠をほぼ単独で渡り、日本人として初めて聖地エルサレムを訪れたとされる。ローマで司祭になり、禁教の嵐が吹き荒れるなか帰国。信徒を励まし続けたが、江戸幕府にとらえられ、拷問の末殉教した。偉業を成し遂げた福者は300年以上忘れられていた。それを世に知らしめたのが、ドイツ神父のフーベルト・チースリク(1914~98)だ。日本とヨーロッパの文献を調べ上げ、ペトロ岐部の全体像を浮き彫りにし、60年代に著書で紹介した。
ペトロ岐部の故郷、国東市国見町。周防灘を望む高台に「ペトロ・カスイ岐部神父記念公園」はある。彫刻家舟越保武が制作した立像が、海のかなたを見つめている。左手に聖書を持ち、右手を優しく前に差し出している。そばにある記念聖堂から像を見ると、いまにも空へ羽ばたきそうだ。「ペトロ岐部のことを少しでも多くの人に知ってほしい」。子孫の岐部洋さん(64)は、記念公園の草刈りと聖堂の掃除を欠かさない。
両親も敬虔なキリシタンだった。父は豊後(大分)のキリシタン大名、大友宗麟の家臣。1549年、イエズス会(修道会の一派)のフランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教は急速に普及、豊後は一大拠点になっていた。だが、ペトロ岐部が生まれた87年、豊臣秀吉の伴天連追放令が出され、97年には長崎で信者26人が処刑された。それでも1600年、13歳で長崎のセミナリオ(小神学校)に入る。6年間、ラテン語や神学をみっちり学んだ。
島原半島南部のセミナリオ跡を訪ねた。そこから少し山を登ると、キリシタン大名、有馬晴信の居城だった日野江城跡がある。緑の葉の揺れ動く音と、鳥のさえずりしか聞こえない。生徒の聖歌やオルガン演奏が、城主にも聞こえていたのか。ペトロ岐部は、信仰に生き、同胞につくす司祭となる夢を大きく膨らませていただろう。しかし、城跡から見下ろせる有馬川では13年、信者8人が火あぶりの刑になった。同年、幕府は全国に禁教令を出し、宣教師らを外国へ追放。司祭の補佐役として働いていたペトロ岐部も、15年にマニラ経由でマカオに逃れた。
受け入れたマカオの責任者は「日本人は才能がない」などとして、勉強の機会を与えてくれなかった。「このままでは司祭になれない」と思ったペトロ岐部は、仲間3人とローマに行くと決意する。海路でローマに行く仲間とインドのゴアで別れ、一人砂漠を渡って聖地エルサレムに巡礼。20年5~6月、ついにローマの地を踏んだ。着の身着のままで現れたペトロ岐部は、イエズス会訪れる。実はこの直前、マカオから「ローマに行く日本人は、我々に逆らった放浪者。援助しないように」という手紙が届いていた。だがペトロ岐部は、試験を受け1ヵ月という異例の速さでローマ教区の司祭になった。同年11月15日、33歳だった。
日本カトリック司教協議会の平林冬樹神父(67)は「ローマの教会幹部たちは、ペトロ岐部が『日本の信徒のために来た』などと流暢なラテン語で話す姿を見て、本物だと見抜いたのだろう」と話す。
決死の帰国、信徒支え続け 17世紀に、これだけの大冒険をしたペトロ岐部。不安や恐れはなかったのだろうか。『ペトロ岐部カスイ』の著者で東大名誉教授の五野井隆史さん(77)は「大友氏の海上警固を担当し、先祖代々、海を相手に生きてきた。自然に立ち向かう強靭な精神を持っていた」とみる。
キリスト教徒で作家の加賀乙彦さん(89)は、ペトロ岐部が歩いた世界の道を実際に旅してみた。「彼の足跡をたどることで、神の国へ行くという気持ちが、少しずつわかってきた」。過酷な体験を著書『殉教者』に結実させた。話を戻そう。ローマで司祭になりイエズス会入会を果たしたペトロ岐部だが、そこで腰を落ち着けることはなかった。1622年、同会を創ったロヨラとザビエルを聖人に列する列聖式に参列。「私も日本の同胞のため働かないと」。高まる思いを総会長に伝え、帰国を許される。23年、帰国途中のリスボンでしたためた書簡には、こうある。「ローマの古代教会やいくつかの国でそうであったように、『殉教の血』によって、日本でも神を認める日が来ることを確信しています」日本への道のりも多難だった。乗り込んだ船は伝染病で多数の死者が出て、何度も難破。オランダ船の攻撃を受け命からがら陸にたどり着き、密林をさまよった。
鹿児島・坊津に上陸したのは30年7月。15年ぶりの母国だった。長崎を経由し、多くの信徒がいた岩手・水沢に向かう。しかしキリシタン領主の後藤寿庵は、すでに水沢を追われていた。「ペトロ岐部は、指導者を失った信徒たちを励まし、棄教した人に戻るよう説得していたのだろう」とカトリック水沢協会の高橋昌神父(81)は推測する。高橋神父と寿庵の史跡を回った。のどかな田園風景は、セミナリオがあった長崎の景色とどこか似ている。だが、ペトロ岐部の心の内は長崎時代とは全く違っていたはずだ。
39年、ペトロ岐部は密告され捕えられる。江戸で井上筑後守政重の取り調べを受けた後、「穴吊し」という凄絶な拷問にかけられた。全身を縛られ、逆さ吊りにされる。頭に血が逆流し意識はもうろうとする。即死しないよう、こめかみを切られたという。一緒に捕えられた神父2人はたまらず棄教した。だがペトロ岐部は耐え、同じ拷問を受ける信徒に「信仰を捨てるな」と語り続けた。築後守は同年7月、棄教させることをあきらめ、腹を焼いて殺したという。52歳だった。
幕府の文書「契利斯督記」(きりしとき)には、こう書かれている。「キベヘイトロは転び申さず候」。上智大教授の川村信三さん(59)=キリシタン史=は「役人が『転ばせる(棄教させる)のを失敗した』と認めているようなもので、彼への畏敬すら感じられる。武士の精神をもちつつ、キリスト教はヨーロッパのもの、という枠を打ち破った人だったと思う」とその強さに感嘆する。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。もし死なば、多くの実を結ぶべし」。聖書にある言葉おまさに貫き通した人だった。命をかけ、世界を駆けて、この国に戻った福者の道は、信仰のない記者にも多くのことを語りかけてくる。「真実を追求することは間違っていないのだ」と。「そのための努力を惜しんではいけないのだ」と。そして「愛は深く、永遠なのだ」と。 文(佐藤陽) 写真(小玉重隆)

 

 

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