7月18日 甲子園ベストゲーム47 京都

朝日新聞2018年7月13日17面:それでも投げきる 4連投で重い肩 疲れ見せぬと決めた仲間の反撃で奮い立つ 4連投ー。「未知の挑戦を最高峰の舞台でやらないといけない」。41年ぶりに全国選手権決勝に駒を進めた平安(現龍谷太平安、京都)のエース川口知哉は感じたことのない疲労に襲われながらも、最後まで投げきる覚悟を決めていた。1997年8月21日。第79回大会決勝は智弁和歌山との近畿対決となり、5万4千人のファンで客席は埋まった。大会屈指の左腕川口は1回戦から準決勝まで5試合663球を1人で投げ抜いてきた。3回戦から決勝までは4連投。「肩回りがきつかった。ただ、監督に『歯を見せるな。打たれようが、抑えようが無表情でやれ』って言われていたので、疲れを表に出さないようにはしていました」重くなった肩は本来の投球をさせてくれない。三回2死三塁から、打ち取ったと思われた二塁への打球が適時打になり、先取点を奪われた。四回にも追加点。「先制されることだけが嫌だった。結構、限界がきていた。気持ちが折れかけていた」。珍しく弱気になっていた。そんな左腕を仲間が援護する。五回、9番の宮田芳弘がスクイズを成功させて1点を返す。なお、2死二、三塁から奥井正憲が左前2点適時打を放ち、逆転した。川口は「もう1回スイッチが入るきっかけだった」と奮い立った。
しかし、疲労は川口の想像を超えていた。五、六回は無失点で切り抜けたが、「やっぱり、苦しかった。打ち取れる球で粘られた。これはまずいぞ、という感覚はあった」。嫌な予感は的中する。七回に追いつかれ、八回には智弁和歌山の8番打者に三塁線を見事に抜かれて勝ち越しを許した。九回にもだめ押しの1点を失った。全国制覇まであと1勝のところで、力尽きた。「智弁和歌山は緻密やった。いい打線やのに、バンドで揺さぶってきた。疲れていることは分かっていたと思うし、つけこまれてるんやろうな、と」
逃げるのは嫌だったチームに伝わった覚悟820球目 最後は三振に 九回2死、川口は最後の力を振り絞った。この大会で投げる820球目は内角への直球。見逃し三振を奪った。「意地でしたね」。その裏、反撃はかなず、川口の甲子園は終わった。「やっと終わった。最後まで出し切ったという感覚だった」。平安のエースとして、完投には強いこだわりがあった。「代わったら、逃げているみたい。それが嫌だった。負けてても最後まで投げきるっていうことに自分の思いは詰まっていた」 そんな思いは、仲間にも、原田英彦監督にも伝わっていた。実は決勝の途中、原田監督は2番手の奥原耕三を投げさせようかと、ベンチにいた奥原に「いこか」と声をかけたという。「そしたら、『ここまで川口できたんですから』って。なので、もう最後まで代えないと決めました」。原田監督は舞台裏を明かす。準優勝とはいえ、古豪復活を印象づけた大会だった。93年に就任した原田監督にとっては、初めての夏の甲子園。70年代後半から80年代にかけ、夏の甲子園に出場できないほど低迷した。「平安がここまで落ちたか」。ショックを受けたOBの原田監督が鍛え直した。「もう、川口みたいな選手は出てこないと思います。今後も。めちゃくちゃ練習しましたし、自分の弱いところを絶対に見せない子でした」と監督。
エースで4番打者だった川口は、主将でもあった。1人3役。「自分の中で比重は4番打者が1、主将1、ピッチャーが8みたいな感じ。妥協はしなかったというのが、高校での財産ですね」 卒業後、プロ野球オリックスにドラフト1位で入団したが、未勝利のまま2004年に戦力外通告を受けた。いまは女子プロ野球の指導者となり、野球の魅力を伝えている。「最終的に高校野球の指導をしてみたいという気持ちはあります。やっぱり気になりますし、甲子園をテレビで見ていると面白いですから」。優しい笑みを浮かべながら、川口はそう語った。
準優勝9度 都道府県で最多 京都の高校野球の歴史は栄光から始まった。全国選手権の前身、全国中等学校優勝野球大会の1回大会(1915年)優勝は京都二中(現鳥羽)だった。古都は「高校野球のふるさと」とも言われる。そんな歴史を引っ張ってきたのが龍谷太平谷(旧平安)だ。13回大会(27年)に初出場し、ここまで府勢最多の33回出場。2215試合連続出場の記録を持つ「鉄人」こと衣笠祥雄(元広島)や「代打の神様」と親しまれた桧山進次郎(元阪神)が輩出。現役では、侍ジャパンにも選出された炭谷銀仁朗(西武)らがいる。春夏通算73回出場し優勝は計4度。甲子園通算100勝まであと1勝に迫っている。ただ、夏の優勝は38回大会(56年)以降はなく、決勝進出も川口知哉(元オリックス)を擁した79回大会(97年)が最後。原田英彦監督は「夏の決勝は、とてつもない険しい山。なんとか、そこまで行って頂点をつかみたい」。
全国選手権出場回数で龍谷太平谷に次ぐのが、京都学園(旧京都商)の11回だ。初出場だった20回大会(34年)には、豪速球が持ち味で「火の玉投手」と呼ばれた沢村英治(元巨人)がいた。32回大会(50年)の山城には吉田義男(元阪神監督)、同時期には峰山に野村克也(元楽天監督)もいた。大リーグに羽ばたいた選手もいる。レッドソックスで活躍した岡島秀樹は東山出身で92、93年の選抜に出場。同学年だった京都成章の大家友和はナショナルズなど複数球団を渡り歩いた。今季から海を渡った平野佳寿(ダイヤモンドバックス)は鳥羽出場だ。ほかにも好投手が多く、高速スライダーを武器に活躍した伊藤智仁(元ヤクルト)は花園、ソフトバンクのエースだった斉藤和巳は南京都(現京都廣学館)の出身。2016年に35歳で50盗塁を達成した糸井嘉男(阪神)は宮津で投手だった。
同年、盗塁王を糸井と同時受賞した金子侑司(西武)は立命館宇治出身。ともに甲子園出場経験はない。80回大会(98年)で、準優勝した京都成章のエース古岡基紀は、決勝で横浜(神奈川)の松坂大輔(中日)と投げ合い、ファンの記憶に残った。81回大会(99年)は田所孝二監督率いる福知山商(現福知山成美)が府北部勢として、初めて夏の甲子園に出場。70回大会(88年)以降、龍谷太平谷と並び最多の8回出場している京都外大西(旧京都商)は2年連続で出場した87回大会(05年)で、決勝まで駒を進めた。高校野球100年の97回大会(15年)には1回大会優勝の京都二中の流れをくむ鳥羽が出場した。京都勢は準優勝が9度で、都道府県別では最多。100回の節目を機に、府勢5度目の頂点に到達するチームが出てくるか。 (大西史恭)
◇敬称略。甲子園ベストゲーム47は今回でおわります。

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