7月15日 寂聴 残された日々 

朝日新聞2018年7月12日36面:37終の棲家 今日は奥嵯峨の、鳥居大文字の真下の畠の隅に暮らすようになって、すでに四十五年の歳月が流れている。五十一歳で出家して、晴美という父がつけてくれた俗名から、法名の寂聴を、法師の今東光師(こんとうこう)にいただいたのにも、まだ馴れない頃であった。その頃、既に住居は京都に移していたが、町の中の家だったので、尼僧にふさわしい庵を造る閑静な地に移りたいと願っていた。ところが人口が急に増えた京都では、閑静そのものだった嵯峨野のあたりも、マンションなどがいくつも建ち、自家用車が忙しそうに往来するようになっていた。
ひっそり、こぢんまりした空き家など全くない。あきらめて、大原でも探そうかと思っていた頃、ひょっこり、畠の中に造成地が見つかった。まだ石がごろごろ残っているような土地は、木一本なく土の匂いがむんむんしている。奥嵯峨の鳥居本仏餉田町(とりいもとぶっしょうでんちょう)という地名である。
仏餉田とは、仏にそなえる米飯を作る田のことなので、縁もありそうである。まわりは畠ばかりで人かげもない。地代がまた気味の悪いくらい安い。ところが造成地は千坪で、千坪まとめて買えと言って引かない。私は三十坪でもいいくらいなので、話がまとまらない。銀行が入ってきて、千坪買えと言う。いくらお金を貸してくれても、私はすでに五十を過ぎていたので、とても借金を払えるまで命が持つ筈がない。どういうわけか、銀行が話をつけ、五百坪を私が銀行の金で買うはめになってしまった。そこに建てた寂庵に、私は四十五年も棲みついている。
移り気で年の数ほど引越をしたと笑い話にされていたのに、こんなに長く住みついて、どうやらここで私は命を終えそうである。今では、ここが、私の終の棲家になり、ここで命を終わりを迎えそうである。住んでみると、閑静で時たま、近所の寺の托鉢の層の声が聞こえるくらいで、浮世離れがしている。草一本なかったわが寂庵も、訪う人が手にさげてきてくれた木々が育ち、今では深い森の中に住んでいるようである。季節毎に咲く花も紅葉も、寂庵が嵯峨一と喜んでいる。写経や法話に、全国から集まってくれる人々も、二代目の人が多くなってきた。毎朝一時間も歩いていた脚腰もさすがに弱ってきて、九十六にもなった今では、背丈も縮み、歩幅も短くなったものの、まだ仕事がつづけられるほど元気である。
半世紀近くも住んでいる間に、大雨や川の増水で、避難命令が出たことが何度かあった。その一度は、つい一週間ほど前に大雨になり、非難命令が出たが、私は肚を決め、法衣だけは着がえ、横になっていたら、グースカ眠ってしまった。スタッフが朝やってきて呆れかえっていたが、歩くのも元のようにしっかりして、まだ、二、三年は死にそうにもない。数年前までは、こうした天災のある度、即、あり金をかき集め被災地へ駆けつけ、見舞ったものだが、老いぼれた今では、もうその力もない。こんな老いぼれてまで、なぜ、まだ仕事をするのかと、よく訊かれるが、人間死ぬまで好きなことをつづけてなぜ悪いと、私は頭をしっかりあげている。 ◇作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんによるエッセーです。

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