6月6日 甲子園ベストゲーム47 番外編 朝鮮・満州・台湾

朝日新聞2018年6月1日22面:台湾パワー準V刻む 日本統治下の時代 農地からグラウンドへ「1年380日」の鍛錬 台湾から初お目見えした嘉義農林に観客が目を見張った様子は、3-0で勝った神奈川商工との初戦を記す朝日新聞から伝わってくる。一回。1番左翼の羅保農(日本名・平野保郎)が、相手の好守にあったが、いきなり左翼深くへの大飛球。四球で出た2番中堅の蘇正生は盗塁を含め、すきを見つければ、ちゅうちょなく次の塁に向かう。「嘉義のプレーにはどことなく豪放さがあって異彩を放つ」と評された。そして、4番投手の呉明捷は投げては1安打完封。そのモーションは「球が二ツ位飛びだしさうな大きな身振りで、発しやう方、面食ふ」と描写された。日清戦争や日露戦争などを経て、日本が朝鮮、満州、台湾を統治していた時代。夏の甲子園の前身となる全国中等野球優勝野球大会には、この「外地」からの3代表も出場した。代表校の選手の多くは、移住した日本人や現地で生まれた日本人だった。
だが、嘉義農林は台湾の先住民と中国から移住した漢民族、日本人の混成だった。羅と3番遊撃の陳耕元(上松耕一)、5番捕手の藍徳和(東和一)、6番三塁の拓弘山(真山卯一)は先住民、蘇と主将の呉は漢民族。そして、7番一塁の小里初雄、8番二塁の川原信男、9番右翼の福島又男が日本人だった。率いたのは、1919年に松山商をベスト8に導いた近藤兵太郎。台湾の別の学校に赴任していたが、請われて嘉義農林の監督となった。その指導は「1年が380日」と例えられる厳しさだった。呉は生前、民放のドキュメント番組で、こう振り返っている。「僕たちは3時までは実習をして、百姓のせがれやっていたんです。終わってから、(グラウンドまで)ランニングです。煎ったらキャッボール。とにかくそつのない練習をしました」台湾東部の山あいで育った先住民の身体能力と緻密さを融合させ、嘉義農林は勝ち上がる。準々決勝は札幌商に20安打、8盗塁で19-7.準決勝は小倉工を10-2と圧倒した。
最後は完封負け エースの豪快フォームいまも地元に そして中京商との決勝。だが、この年から3連覇を達成する投手、吉田正男に打線は散発6安打み抑えられた。三回1死三塁の好機など、先頭打者が3度出塁したが、いずれも続かない。盗塁もゼロで、機動力も発揮できなかった。呉も得意のカーブの制球が乱れ、計8四球を与えた。三回、2死一、二塁から4番打者に適時打を許した後、捕手の悪送球で2失点。四回も3四球と暴投がからみ、やはり2失点。「学生野球の父」と呼ばれる飛田穂洲は朝日新聞で「前日に全力を尽くした後とて疲労はまだ回復せず」と書いた。83年に他界した呉の次男の堀川盛邦(63)が埼玉県に住む。
「甲子園の話はほとんどせず、大学時代の話しの方が、仲間にもよく会っていたこともあって多かった」呉は早大に進み、東京六大学野球で通算7本塁打を放った。これは立大の長嶋茂雄に破られるまでリーグ記録だった。早大卒業後も日本で暮らし、貿易などの仕事をした。堀川が嘉義農林の活躍を知るのは、その快進撃を描いて2015年に公開された台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」で協力し、嘉義市の人々と交流を始めてからだ。広告の仕事をする堀川だが、制作側から打診され、甲子園出場を決めたメンバーを出迎える嘉義市長役として出演もした。「嘉義は野球が盛んで、ユニホームを着た子どもたちが街中を歩いていました。中心地に父の投球フォームの像が作られ、それを見に行く楽しみができました」戦争へ、さらなる戦争へ。全国大会は41年から中断する。愚かな歴史の中、準優勝メンバーでは川原と福島が戦死している。
朝鮮・満州勢も上位進出 朝鮮代表で異彩を放つのは、1923年の徽文高普だ。歴代の朝鮮代表の大多数はメンバー全員が日本人か、数人の朝鮮人が交る構成だったが、徽文高普は唯一、朝鮮人のみで構成された。朝鮮で、野球は10年の日韓併合前から広まっていた。中等学校の野球も、この全国中等学校優勝大会の朝鮮大会が始まった21年に先立って、朝鮮体育会が主催する全朝鮮野球大会が20年から始まり、この中に中等部の大会があった。
「主に日本人が通う学校は『全朝鮮』には出ず、朝鮮人が通う学校は自負心から『全国』には出なかった。互いに交流がなされていなかった」韓国野球委員会の資料収集委員長で、「韓国野球球史年表」出版した洪淳一は、そう説明する。「成人の大会は日本人チームと朝鮮人チームが試合をする機会が多かったが、選手も観衆もよくけんかになった。当時、野球は日本に勝つためのものでした」そんな中、徽文高普は「全朝鮮」と「全国」の両方に出た。監督の朴錫胤が日本留学経験があり、壁をつくらなかった。23年の徽文高普は初戦で満州の大連商を破り、ベスト8に進んだ。
その大連商が準優勝1度、ベスト4が3度と名をはせた満州勢。「戦前外地の高校野球」の著書がある著述業の川西玲子(63)は、天津商の投手として38、39年に甲子園に出場した川西良主夫を父に持つ。1度目は朝鮮の仁川商に2-3の惜敗。2度目は関西学院(兵庫)に8-22の大敗を喫した。
「あがってしまって思うように投げられなかったこと、観客の服がみんな白くて打球が見にくかったことなど、甲子園のことを1日に1.2度は必ず話していました。『人生最高の思いで』と。聞き流していたけど、悪かった」 良主夫は船で5日かけて神戸まで来たことなど、39年の出場記を残している。「旅装を解いて一休みする暇もあらばこそ早速ユニフォームに着替えて、甲子園球場に初練習を行う。8月の太陽もなんのその、猛烈な練習が始まった。選手はクタクタだ、監督もクタクタだ。唯、黙々として白球を追う」関学戦については「満州大会では完投する事を得たとは言うものの肝心な檜舞台のあの醜態」と大量失点の悔しさを表現している。入隊時、写真は焼却するよう言われたため、ユニホーム姿の写真は、手元に一枚もなかったそうだ。(中小路徹)
 

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