6月28日 旧沖縄陸軍病院の「飯上げの道」(沖縄県)

朝日新聞2018年6月23日be6面:迫撃砲のなか学徒は駆けた 6月23日は、沖縄県の「慰霊の日」だ。20万人余りの犠牲者を出したといわれる第2時世界大戦末期の沖縄戦。1945年4月、沖縄本島に米軍が上陸し、県民を巻き込んだ地上戦は約3ヵ月続いた。73年前のこの日に日本軍司令官らが自決し、組織的な戦闘が終わったとされる。「鉄の暴風」といわれた米軍の迫撃砲などで死んだ民間人は9万人以上。当時の県民の約2割に相当し、糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園で毎年、沖縄戦全戦没者追悼式がある。沖縄戦に人々はどう対峙したのか。それが知りたく、本島南部の南風原町(はえばるちょう)に黄金森(くがにむい)と呼ばれる丘陵を訪ねた。ふもとにある同町立南風原文化センターから少し坂道を上がると、右手に「沖縄戦跡南風原陸軍病院壕跡」と書かれた碑が見てきた。
黄金森は「仏の前」などの拝所(聖域)があり、「大切な森」という意味を込めて、名がつけられたと言われる。44年、米軍の上陸が近いと判断した日本軍は、海から離れている黄金森で横穴式地下壕の構築を始めた。那覇にあった沖縄陸軍病院が空襲で焼かれると南風原国民学校に移転。さらに空襲が激しくなるり、30余りの壕に病院を移した。道は、仏の前のそばを通り、尾根の向こう側にあった外科壕跡へうながっている。
途中、舗装路が途絶えた。前夜からの雨があがったばかりとあって、土の道は油断すると滑って転びそうだ。ハブへの注意を促す看板もある。南風原には手術壕や本部壕、勤務者壕などが設置され、約350人の軍医、衛生兵、看護婦に加え、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女子学校の生徒たち(戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる。引率教員18人を含む総勢240人)が働いた。その各壕へ食料を運ぶために使われたのが、この「飯上げの道」だ。
ひめゆり学徒たちは、飯上げや水くみ作業などを担当した。ご飯のたるを下げた棒を2人で担ぎ、坂道を走った。運搬中の迫撃砲で死傷者が出た。足場の悪いところで転んでご飯をこぼしてしまい、何とかかき集めて壕まで持っていったものの、土をきちんと取り除けず、患者から「がりがりしている」という苦情が出ることもあった。南風原文化センター学芸員の保久盛陽さん(28)によると、米軍の艦砲射撃がゆるむ朝と晩を選んで、同センターの西約100㍍の炊事場で炊かれたご飯などを一斗だろ(18㍑入り)に8分目ぐらいまで入れて運んだという。「それをピンポン球大のおにぎりにして、配った。最初は1日2個だったが、やがて1個になったそうです」45年5月下旬、沖縄本島の日本軍は司令部のあった首里(沖縄市)を放棄し、持久戦を展開するとして本島南端の摩文仁への撤退を決めた。
陸軍病院の各壕へも撤退命令が出た。同月25日には軍医や看護婦、学徒らが歩くことのできる患者を連れて壕を出たが、動けない患者には青酸カリが配られた。青酸カリ入りミルクを飲まされそうになった両足切断の患者が「これが人間か」と叫んでいるのを聞いたという学徒隊メンバーの記憶が残る。また、知らずに青酸カリ入りのミルクを飲んだが、苦しくなってのどに指を突っ込んではき、九死に一生を得た男性の証言もある。「日本軍は兵士・民間人が捕虜になるのを許さなかった。命を助ける病院が、郡によって命を奪う場にされた」と保久盛さんは話した。
戦争遺跡守り平和語り継ぐ 南風原町は1990年、沖縄陸軍病院壕群のうち第一、第二外科壕群を町条例によって史跡に指定した。敗戦から45年。戦争関連遺跡の文化財指定は国内で初めてだった。当時の南風原文化センター館長、大城和喜さん(69)は「あの頃は文化庁に相談に行っても、100年経っていないものは社会通念的に史跡ではないと言われた」と語る。沖縄戦を実体験として語れる人が減っていることが、すでに問題となっていた。そこで南風原町は、後に沖縄国際大教授となる高校教諭の吉浜忍さんを中心に、高校生や主婦らの協力を得て沖縄戦の町内聞き取り調査を実施した。
「でも、それだけじゃ足りない。遺骨収集などが進む壕をきちんと調査し、保存し、公開することによって、沖縄戦の記憶を半永久的に残す。そのための文化財指定だった」と大城さんは言う。現在、中に入って見ることができるのは、第二外科壕群の20号だけだ。ほかにも候補の壕はあったが、崩落が少なく、発掘調査も行われた20号が補強工事を施された後、2007年に一般公開された。長さ約70㍍。高さ・幅とも約1.8㍍で、見学者は壕の入り口の受付で懐中電灯とヘルメットを借り、南風原平和ガイドの会のメンバーの案内で見学する。1グループ10人まで。「風化が進む壕を少しでも長く後世へとつなげたい」との理由で、大人数を一度に入れることはしてはいない。見学者の多くは県外からで、「存在すら知らなかった」と驚く人もいるという。
記者も20号に入った。思ったより湿度が高い。照明は設置されておらず、懐中電灯の光の先を時折、米軍の火炎放射器で焼かれた杭木がよぎる。閉ざされ、ひんやりとした空気に心が重くなった。沖縄戦当時、壕の片側には作りつけの二段ベッドがずらりと並び、薬品をはじめ、患者の血や膿、垢、大小便のにおいなどが充満していたという。
現在、読谷村教育委員会で文化振興課課長を務める上地克哉さん(50)は、南風原町の学芸員だった15年1月、陸軍病院壕を知る人たちとともに当時の壕内のにおいを再現した。「7種類のにおいをまぜて作ったが、『強烈』のひとことでした」と語る。「関係者がかぐと、嫌な記憶がフラッシュバックするのでと心配になったほどだった」というが、沖縄戦の実相を理解してもらうため、見学者らに悪臭を追体験してもらう機会を設けてきた。
そんな沖縄戦でも、戦争の風化は待ったなしだ。上地さんが勤める読谷村では昨年、多数の民間人が集団自決した鍾乳洞「チビリガマ」(村史跡)で、肝試し目的の少年が壕内の遺品などを破壊する事件が起きた。「話を聞いても、何が起きたのか理解できなかった。子どもたちにとって戦争が遠くなったのを痛いほど感じる」沖縄県によると、県内に残る戦争遺跡は千以上。数では国内有数だが、文化財に指定されているのは十数件と決して多くはない。「戦争遺跡を開発の邪魔としか考えていない人もいる」と上地さん。当時の空気を追体験できる戦争遺跡は、「半永久的に行き続ける平和の語り部」だ。戦争の証言者が超高齢となり、戦争遺跡の意義はますます強まっていくだろう。
南風原文化センターを出て、「飯上げの道」を振り返った。今は公園となっている静かな丘陵に延びるこのこみちに、米軍の砲弾が飛び交うなか「今日は死ぬのではないか」と震えながら、ご飯のたるを運ぶひめゆり学徒の姿が見えたような気がした。 文(宮代栄一) 写真(河合真人)

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