6月26日 甲子園ベストゲーム47 青森

朝日新聞2018年6月22日14面:再決戦フルスイング 「夏は桐蔭に勝つ」4番が4本塁打3季連続で決勝へ 一回、光星学院(現八戸学院光星)の攻撃。大阪桐蔭の藤浪晋太郎(阪神)に3球三振を喫した3番の田村龍弘(ロッテ)が、三塁側ベンチに戻って嘆いた。「無理や」。監督の仲井宗基が「無理言うな」と苦笑いしながらたしなめる。しかし、三者凡退に抑えられた藤浪の投球を目の当たりにし、仲井自身も脱帽していた。「付け入る隙がないな」、と。
2012年夏、第94回大会決勝は史上初めて初の選抜決勝と同じ顔合わせとなった。光星は中京商(現中京大中京、愛知)、PL学園(大阪)に続き3校目の3季連続決勝進出。前年の優勝チームでも主軸だった田村と4番の北條史也が3年になり、青森では「史上最強」の呼び声も高かった。「春に負けているから、絶対に勝ってやるという気持ちしかなかった」と北條は振り返る。もう一つ、対抗心を燃やす理由があった。光星はベンチ入り18人のうち北條を含めた7人が大阪出身。北條も浅村栄斗(西武)らを擁して全国優勝した大阪桐蔭に強く憧れていた。縁が無く進学を諦めた大阪桐蔭を見返すチャンスが、甲子園の決勝という最高の舞台で回ってきた。「大阪桐蔭に勝って、光星学院に入ってよかったと思いたかった」
最後の夏。甲子園で北條は絶好調だった。準決勝まで16打数8安打。本塁打は、当時の大会記録にあと1本と迫る4本を放っていた。準々決勝の桐光学園(神奈川)戦では好左腕の松井裕樹(楽天)から長打を放ち、「野球人生で一番」という状況で決勝までたどり着いた。選抜の決勝は3-7で敗れたとはいえチームは藤浪から12安打、北條も2安打していた。楽観してはいなかったが、打席で相対した右腕は球威も制球力も想像以上の成長を遂げていた。
二回無死、北條の第1打席。初球の150㌔にフルスイングで空振り。2球目の150㌔にもバットは空を切った。力勝負にスタンドが騒然とする。最後は外寄りのフォークに動けない。3球三振。「フォークとわかっていても打てなかった。こんなにいいのかって驚いた」
手応え一転「ボールが消えた」力負け悔しさはない それでも、四回の第2打席は手応えがあった。外角の変化球に少し泳いで中飛だったが、フェンス近くまで打球が飛んだ。藤浪の顔に一瞬、「そこまで飛ばすか」というような苦笑いが浮かんだ。「次は打てる」。北條に、そんな思いが芽生えた一打だった。しかし、チームが3点を先行された後の七回の第3打席で力の差を痛感する。外角の厳しいコースをファウルで粘るも、8球目の高速スライダーに空振り三振。「(藤浪の)ボールについていく北條君のスイングスピードも素晴らしい」とテレビの解説者は北條のファウルを評したが、本人の意識は「完敗」だった。
「ファウルにするのが精いっぱい。最後のスライダーはボールが消えた」。クールな北條が、珍しくバットを地面にたたきつけて悔しがった。前日の準決勝で完投した藤浪は、尻上がりにすごみを増した。「高めに浮いた直球を狙おう」と意思統一したいたが、150㌔前後の速球は次々と低めに決まる。手詰まりの仲井は「中盤からは狙い球の指示も出しにくかった」。九回、田村が詰まりながらも中前にチーム2本目のヒットを放った。北條は直球に狙いを絞り、藤浪も全力投球で応戦。1球目は150㌔、2球目は152㌔。2ボールからの3球目、151㌔は芯に当たった感触が手に伝わった。だが打球は失速。二飛。「力負けだった。あのメンバーで野球をやるのも最後だと思って泣きそうになったけど、負けた悔しさはほとんどなかった」東北勢で春夏合わせて10度目の決勝ねの挑戦だったが、またもやはね返された。「あの決勝で『優勝したい』という気持ちがもっとあれば勝てたかもしれない」と北條は言う。100回大会へ、みちのくの夢は続く。
山田・光星時代から混戦へ 青森勢が全国選手権で初勝利を挙げたのは1960年の42回大会。八戸中が12回大会(26年)に初出場してから、実に34年をかけての1勝だった。そんな青森の球児が51回大会(69年)で一躍注目を集めた。三沢のエース、太田幸司(元阪神)だ。延長再試合になった松山商(愛媛)との決勝で2日間にわたって熱投。端正な顔立ちから「甲子園のアイドル」と呼ばれた。しかし、翌年から88年まで青森勢は全て初戦敗退。この間に延べ13校が甲子園の土を踏んだが、うち8度が零封負け。「貧打の青森」というイメージがつきまとった。
64回大会(82年)では木造が佐賀商戦の九回2死まで一人も出塁できず、27人目の打者が死球を受けて初の完全試合を免れるのがやっとだった。春夏通じて本塁打もなかなか出ず、79回大会(97年)に光星学院(現八戸学院光星)の山根新が放った「県勢1号」は、47都道府県で最も遅いホームランだった。
80年代半ばからは弘前工や青森、三沢などが合同合宿し、力を合わせて底上げを図ったが、風向きが変わったのは平成に入ってから。青森山田が93年、光星学院が97年にそれぞれ全国選手権初出場を果たすと、両校の競争は熱を帯びた。関東や関西から選手が野球留学し、99年から11年連続で2校のどちらかが甲子園に出場。青森山田のエースで4番だった大阪出身の柳田将利(元ロッテ)、兵庫出身で光星学院の坂本勇人(巨人)ら高卒でプロ入り選手も増えた。青森北の細川亨(楽天)は強肩捕手として県内では知られた存在だったが、甲子園には縁がなかった。
八戸学院光星監督の仲井宗基はコーチとして赴任した25年前、環境の厳しさに驚いたという。満足に練習できる室内練習場が出来たのは2014年。それまでは「小屋」と呼んでいた15㍍×20㍍ほどの建物が冬の練習場所。ノックすら満足にできない中で地道な基礎練習を繰り返した。北国の環境は変えられないが、「もうハンディとは言っていられない」と仲井は言う。04年に駒大苫小牧(南北海道)が津軽海峡を飛び越え、北の大地に深紅の大優勝旗を持ち帰った。
「昔は漠然とした夢だった全国制覇が、今は現実的な目標まで近づいてきている」県内の勢力図も変化している。昨年の青森大会決勝は青森山田と八戸学院光星の対戦だったが、決勝で両校が当たるのは9年ぶりだった。2強を追って八戸工大一、聖愛なども地力をつけ、15年には三沢商が公立では19年ぶりに甲子園に出場した。49年前、あつ一歩で全国制覇を逃した太田は言う。「我々の頃は青森が決勝に出ただけでどえらい騒ぎになったけど、今は、まぜ優勝できないのか不思議なくらい力がある。東北勢で最初に優勝旗を手にするのは青森じゃないのかな」 (波戸健一)

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