6月24日 ベストゲーム47 熊本

朝日新聞2018年6月19日15面:あのアウトは原点 Vへのタッチアップ「フライング気味に」4秒後の暗転 27.431㍍先にある栄冠へ。熊本工の三塁走者・黒子崇は右翼手が飛球をつかむと同時にスタートを切った。本塁へ滑り込んだその時、目の前に白球が現れ、捕手のミットが顔をかすめる。4万8千人の観衆が湧き返ると、黒子は本塁上で灰色の空を仰いでいた。歓喜と落胆が入り交った甲子園。十回裏1死満塁から起きたこのプレーは、「奇跡のバックホーム」として語り継がれていく。1996年8月21日。熊本工は悲願へ王手をかけていた。川上哲治(元巨人)がエースだった第23回大会以来、59年ぶりの決勝進出。熊本勢としても初となる深紅の大優勝旗が手に届くところまで迫っていた。試合前からベンチ内は緊張感が漂った。選手たちの会話は普段より少ない。一回、いきなり先発の園村淳一が松山商打線につかまった。2者連続の押し出し四球もあり3点を失った。
打線も元気がない。2年生右腕・新田浩貴を攻略できず、1点差で九回へ突入した。2者連続三振であと1人に。だが、主将の野田謙信は「あいつなら何かやってくれそうな気がした」。視線の先には、6番打者の沢村幸明だ。名門で定位置をつかんだ1年生は「まだ終わりたくない」。初球を振り抜くと、左翼ポール際へ同点ソロが飛び込んだ。延長十回の攻撃は8番星子から始まった。カウントは3ボール。2球「待て」のサインのあと、フルカウントから左中間への二塁打で出塁した。この打席、星子に変化があった。「初めて監督のサインを見た」。野球センスは誰からも認めらていたが、「監督の言うことを聞かずに反発ばかりしていた」と星子。自分本位のプレーが目立ったため打順は下がっていった。
「初めて本気でチームを勝たせたいと思った」と言う星子がバンドで三塁へ進むと、松山商も動いた。敬遠の四球二つで満塁策をとった後に右翼に矢野勝嗣を送った。直後。1死満塁から本多大介が初球をとらえる。打球は高く上がり、そのライト後方へ。だが、浜風で定位置近くまで押し戻された。打球が落ちてくるまでの間、三塁走者の星子は冷静に考えた。「風があるから返球は伸びる。フライング気味にスタートを切ろう」。タッチアップを狙い、左足で三塁ベースを蹴った。およそ4秒後。滑り込んだ瞬間にノーバウンドの返球を受けた捕手のミットが触れた。アウト。そのまま倒れ込み、拳を振り下した。
浴びた非難 右翼手との再会「一生、背負っていこう」 サヨナラ勝ちを阻まれた熊本工は、十一回に3点を勝ち越され、敗れた。熊本に帰ると、「ちゃんと走ったのか」などと非難の声が待っていた。同級生は気を使って星子の前では決勝の話はしなかった。それから10年後。反抗的な態度を謝ることができないまま、田中久幸監督は59歳で亡くなった。転機は2013年末。星子のもとを、旅行で熊本に来ていた松山商の矢野が共通の知人の紹介で訪れた。あの日、生還を阻んだ右翼手だ。立場は違えど、互いに「奇跡」の当事者であることが重荷となった人生を語り合った。後輩の甲子園出場にも興味がなくなるほど野球から遠ざかっていた星子の心が動く。「一生、背負っていこう」。半年後、熊本市内に野球バー「たっちあっぷ」を開いた。
16年4月に熊本を大地震が襲うと、星子は「県民に元気を」と立ち上がった。当時のメンバーを集め、20年前の決勝の再戦を企画した。「バックホーム」の再現では、矢野の返球より先に星子が本塁へ。みんなが笑顔で迎えてくれた。いま、胸を張って言える。「あの試合、あのワンプレーがあったから今がある。おれの人生の原点」だと。22年前の夏、本塁上から見上げた光景はいつまでたっても色あせない。
「熊本工に追いつけ」近年は変化も 夏の甲子園で優勝なし。プロ通算2千安打を最初に達成し、「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治=元巨人=ら多くのスター選手を生み出してきたふぁ、深紅の大優勝旗をいまだ熊本の地へは持ち帰れていない。「県勢初優勝」を目指していしのぎを削っている。最高成績は、熊本の野球界を長年引っ張ってきた熊本工の3度の準優勝。春夏あわせて41度の甲子園出場を誇り、川上をはじめ、伊東勤=元西武=、緒方耕一=元巨人=、前田智徳=元広島=、荒木雅博=中日=ら県内最多のプロ野球選手が輩出した名門だ。
そんなスター軍団に対抗意識を燃やしてきたのが、古豪の済々黌。1958年の選抜大会で優勝した時の主将だった末次義久が72年に母校の監督に就任すると、当時は斬新だった「機動力野球」を駆使してチームを復活させた。「一人一人の力がなくても、考えて力を合わせれば強者に立ち向かえる」。監督が代わっても伝統は受け継がれる。80年代以降は、鎮西、九州学院、城北、文徳などの私立も安定した力をつけ、群雄割拠の時代へ突入した。
鎮西は81、84年の夏に甲子園に出場し、いずれも4強入り。九州学院は98年あら県初となる夏3年連続での甲子園出場を果たした。強打者も多く生まれた。八代の秋山幸二=元西武、ダイエー=は80年の熊本大会で伊東を擁する熊本工に惜敗したが、当時の指導者は「身体能力は群を抜いていた」と振り返る。プロで三冠王を獲得した八代一(現秀岳館)の松中信彦=元ソフトバンク=も甲子園には縁がなかった。高校時代に左ひじを痛め、右投げに挑戦した。
熊本工に追いつけ追い越せ、とレベルアップを図ってきた熊本の高校野球。だが、最近はその勢力図が変わりつつある。秀岳館の台頭だ。大阪の中学生チームを強豪に押し上げた鍛冶舎巧が、2014年に監督に就任するとメキメキと力をつけた。県外から有力な選手を集め、厳しい練習で育て上げる手法は時に批判を浴びたが、甲子園では16年の選抜から4季連続出場で3季連続の4強入り。全国屈指の強豪校を作り上げた。17年夏の大会後に勇退。「我々が甲子園で勝つことで熊本の野球のレベルが上がる。少しは貢献できたと思っている」と語った。100回目の大会は秀岳館が3連覇をするのか、伝統校が阻止するのか、それとも他の学校が新風を起こすのか。注目の夏を迎える。(山口裕起)

 

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