6月13日 甲子園ベストゲーム47 福岡

朝日新聞2018年6月8日17面:報われた涙の完封V カウント2-2.西日本短大付のエース森尾和貴はサインに首を振り、タイムを取った。捕手の西原憲一をマウンドに呼ぶ。目には涙。「インコースの直球」。最も自信のある球で勝負すると伝えた。九回、点差は1点。2死から右前安打、そして二盗も許した。拓大紅陵(千葉)の中軸・立川隆史を抑え、こみ上げる涙に天を仰いだ。覚悟を決めた直球が走る。5球目ファウル。6球目、詰まった飛球を三塁手の梅沢敦がつかむ。完封。二回にスクイズで奪った1点を守り切った。西日本短大付が初優勝。三池工以来、福岡勢27年ぶりの全国制覇だった。
ひたすら走って鍛えた足腰 最後に生きた 「涙の理由ですか。やっと報われるというか、そういう気持ちになりました」と森尾。2年前、西日本短大付は全国4強入りを果たしていた。目標は優勝しかない。チームは力量もあった。なのに選抜へつながる秋の県大会は3ランを浴びて敗退。春の県大会も一発に泣いた。「肝心なところで負けた。自分のせいで。夏前もチームはどん底で、どうしたら勝てるのか、という時期があったんです」
練習とは別に、森尾はよく走った。公式戦後も、壮行会の焼肉のあとも。使ったのは学校の正門前の緩やかな坂。日に50本以上。試合で1失点につき10本が加わった。すべて自分で決めたことだ。「森尾はできることをコツコツと積み重ねるスペシャリスト」と主将だった中村寿博(日本文理大監督)。「足腰を鍛えに鍛え、コントロールと球のきれを手に入れた。最後の最後にそれが研ぎ澄まされた」。技術なら今の投手が上だが、自らを厳しく律して培った勝負にあたっての気力は、雲泥の差だという。七回には焦点となったスクイズ阻止がある。1死三塁。1ボールのあとの2球目に予感がした。浜崎満重監督からの指示も「外せ」。スクイズは普通、外角球で外すが、森尾は胸元へ直球を投げた。走り出した走者を視野に入れ、高めに修正した。
森尾は説明する。「打者真理としてはインコースに来るとは思ってないでしょう。とっさに反応しちゃう。それがフライになって併殺が取れたらという狙いでした」。結果はバンド空振り。走者をアウトにして難局を切り抜けた。
社会人流の守り支えたのは抜群の制球力 「点をやらなければ、勝てる」。これが新日鉄堺出身の浜崎監督の心情だった。社会人流の水準の高い守備を仕込まれた。例えば打球の予測。投球のコース、球種、打者の振りなどから守備位置を変えるのは当たり前。対戦校の打者を必ずビデオで分析した。「監督は打者を研究する目を養うというか、そこまで高校生に求めた」と森尾。抜かれたと思われた打球が野手の正面という場面が再三あった。相手には不運でも、自分たちにとっては必然。それも森尾の並外れた制球力があったからこそ成り立った。
未経験の4連投で決勝を迎えた。「もう最後。思い切り投げようとしか考えなかった」。結局、甲子園では5試合で4完封。打者162人に対し28安打、31三振、4四死球、1失点、防御率0.20。星稜(石川)の松井秀喜への5連続敬遠で騒然となった大会で、存在感を見せつけた。甲子園で投げすぎたんじゃないか。こんな声が新日鉄八幡に進んでから聞かれた。右ひじの手術を経験し、肩も痛めた。「後悔はない。僕らの時代、やはりエースになりたいですよね。自分に任せてくれと。だから責任がある。どのチームも練習しているんでしょうけど、それに加えて努力をして、いろんなつらさを乗り越えた選手たちが甲子園で結果を残せていると思う。そういう経験をしてきたから、何年たっても胸を張れる」前年、準優勝した沖縄水産のエースが右ひじを痛めたまま投げ続け、議論を呼んだ。これを機に日本高校野球連盟は複数投手制を提唱する。守夫が光彩を放ったのは、そんな時代の曲がり角のことだ。
幅広い人脈 九州国際大付が風穴 昭和の終わりから平成初頭にかけて、最近のピークがある。70回(1988年)で福岡第一がエース前田幸長(元巨人)、4番山之内健一(元ダイエー)を擁して夏の全国準優勝。地方大会直前に不祥事による対外試合禁止処分が解け、ぶっつけ本番だった。西日本短大付は72回(90年)で4強に食い込み、74回(92年)の全国制覇につなげた。甲子園は逃したが71回の3年生に阪神などで人気者になった新庄剛志がいた。遊撃手は現監督の西村慎太郎。「新庄は未明の3.4時までバットを振っていた。素質のある選手が本当によく練習した」と西村は懐かしむ。
福岡は群雄割拠だ。まだ少子化の影響がなかったバブル期を境に私学が伸びた。それも地元選手志向の学校が多いようで、好素材が分散しがち。抜けた存在がなかなか出てこない。そんな中、葛谷修前監督が率いた東福岡が80回の98年に春夏出場。エースで主軸の村田修一は巨人から独立リーグ栃木に活路を求めた。一つ下に元メジャーの田中賢介(日本ハム)があり、81回(99年)も出場。伝統校の柳川は82回(00年)のエース香月良太(元巨人)が記憶に残る。智弁和歌山と準々決勝で対戦。親指のマメをつぶし、延長十一回サヨナラ負けしたが、4試合で43三振を奪った。
真颯館(旧九州工)の末次秀樹監督は柳川商(現柳川)の選手時代、8打席連続安打の全国選手権記録を作った。05年まで約10年、母校を率い、自由ヶ丘をへて13年に真颯館へ。1年目は部員10人。甲子園出場歴のあるチームを再建した。柳川関係では、飯塚の吉田幸彦監督が55回(73年)で江川卓の作新学院に善戦したときの主将だ。飯塚を90、94回(08、12年)に夏出場に導いた。福岡工大城東も甲子園に春夏5回出場。日産自動車で鳴らした杉山繁俊監督が鍛え、教え子に梅野隆太郎(阪神)ら。13年から東海大福岡を指導する。九州国際大付は群雄割拠に一つくさびを打った。96回(14年)から3年連続で夏優勝。3連覇は県立の戸畑以来55年ぶりだった。東北(宮城)時代にダルビッシュ有(カブス)を育てた若生正広監督が05年夏に就任。広い人脈で強化を進め、96回出場後は元プロの楠城徹監督が引き継いだ。九州国際大付を99回(17年)で止めたのが県立の東築。OBの青野浩彦監督は「面白くて楽しいことをやる」と打撃を強化して対抗する。平成以降、公立の夏の全国出場は東築のみ。公立出の逸材も。ソフトバンクの中田賢一(八幡ー北九州市立大)は100勝目前。DeNAの今永昇太は北築から駒大へ進み開花した。甲子園で初めてベンチ入りした女性は、77回(95年)で柳川の部長だった高木功美子。3年後、がんで早世した。41歳。剣道有段者で、りりしく、笑顔がすてきな人だったという。 (隈部康弘)

朝日新聞ASAの伸光堂西部販売 森林文化協会

ご予約・お問い合わせはお気軽に

Tel0120-740-276

〒352-0011 埼玉県新座市野火止8-14-29

ページトップへ戻る