5月24日 白球の世紀88

朝日新聞2018年5月17日夕刊14面:借り物のグラブで快投 《第10章》「久しぶりに昔のことを思い出したら、涙が出てきた」茨城県笠間市の暖炉がある喫茶店で、地元の常連客の宮田勲(75)が約60年前を振り返った。時折こみ上げる感情を抑えながら、紫煙をくゆさせた。第2次世界大戦中の1942(昭和17)年生まれ。年の離れた8人きょうだいの末っ子で、茨城県五所村(現筑西市)の役場敷地内にある家で暮らした。
父は役場で書類などを届ける小間使として働き、母は小学校の用務員。生活は苦しく、きょうだいのほとんどが高校には行かずに家を出た。「経済的に苦しかったが、それが当たり前だと思っていた」と語る。宮田は下館一(茨城)の2年生投手として、1959(昭和34)年の第41回全国高校野球選手権大会に出場した。卒業後は、地元大手の日立セメントに入社し、のちに役員にも就任。県生コンクリート工業組合の理事長を約10年間務めて、5年前に引退した。幼い頃から野球が好きで、地元出身で阪神、大毎(現ロッテ)で活躍した田宮謙次郎(1928~2010)に憧れた。ただ、地元の中学校は農村地帯にあり、繁忙期は子どもは労働力として田んぼの手伝いに駆り出された。「この忙しい時に野球なんかやって」。球児たちは大人からそんな言葉を浴びせられた。部は形だけで、簡単な外野フライも落とすようなチームだったという。
宮田は朝4時に起きると、立てた木の板に描いた三重丸の的へ向かってボールを投げた。近所からは、その音が目覚まし代わりになっていると言われた。ひとりで投げ続け、やがて板はくりぬかれた。中学時代は革のグラブやスパイクは高くて買えなかった。借り物でマウンドに立って無安打無得点の試合をした。中学3年の夏休みに近くの強豪中学校の監督が練習に誘ってくれた。大好きな野球に打ち込める日々。しかし、宮田を次々と不幸が襲った。
(五十嵐聖士郎)

 

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