5月17日 オトナになった女子たちへ 益田ミリ

朝日新聞2018年5月11日19面:英会話レッスンの後に 歩道橋から空を見上げる。渋谷の上にも当たり前だが夜空があった。明るい夜空だ。わたしは空しかった。理由が言葉にできるなら、たぶん、それは空しさではないのだと思う。わたしは、その夜、正しく、空しかった。週に1度の英会話の習い事を終え、いつもはカフェで一息ついてから家に帰るだけれど、映画を見に行く約束があった。3Dメガネをかけて見る、ド派手な映画だ。
映画は楽しみだった。映画の前に、軽く食事をすることになっていた。むろん、それも楽しみだ。なのに、ぼんやり空しいままなのである。さっきまでの英会話を思い出しながら駅まで歩いた。先生は親切な若い女性だった。「あなたのことを話して」と先生に言われ、たどたどしい英語でわたしは話した。「わたしは旅が好きです。あとは、甘い物が好きです。一番好きなはシュートケーキです。それから、わたしには、大阪に両親がいます」
父は他界しているので、真実ではなかった。まぁ、いいかな、と思う。父が生きている世界を、1ヵ所くらい持っていたかった。英会話レッスンのつかの間、わたしのオトーさんは、元気に畑で野菜を作ったり、歴史小説を読んだりしているのだった。英語は、そこにあるものが、ひとつなのか複数なのかにめちゃくちゃにこだわっている。先生は、わたしが「a」を付け忘れると、話の途中でも割って入り「a」を付けさせる。「個数はだいたいでええんや」という日本語の感覚とは違うのに戸惑いつつ、英語をおもしろいと感じるところでもあった。
はて、空しさて、英語でなんていうのだろう? というか、空しさはなんのためにあるのだ? 嬉しさや悲しさと同じように、それは人に備わっている。必要だから搭載されているに違いなく、ならば今夜の空しさも仕方ないことだった。映画はたいそうおもしろかった。帰りの電車に揺られる頃には、「アイス買って帰ろ!」と明るい気持ちに。もう空しくなかった。消えたのではなく、胸の奥の箱にしまわれただけ。またふいに顔を出すはずである。(イラストレーター)

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