5月15日 寂聴 残された日々

朝日新聞2018年5月10日31面:35天才の秘書 私が岡本かの子の伝記を「婦人画報」に「かの子繚乱」と題して連載することになったのは1962年であった。そのため、私は初めて岡本太郎氏に近づき、その許可を得た。その時すでに太郎氏の許には、平野敏子という優秀な秘書がいた。彼女は私と同じ東京女子大の3年ほど後の卒業生で、学生時代から頭がずば抜けていいと評判されていたという。太郎氏とは逢った瞬間から縁が出来、太郎氏はそれまでいた美人秘書の代わりに敏子さんを採用したという。敏子さんはスタイルのいい髪の長い人だったが、所謂美人らくしはなかった。親しくなったある日、敏子さんの鼻の下に、男のように黒いひげがうっすら生えているを見つけた私が、注意すると、「太郎先生が、きみは平凡な顔だから口ひげでもはやしてみたらと、おっしゃったのでこうしているの。おかしい?」という。太郎さんに突然湧き出る思想や美術のアイディアを、敏子さんはたちまち筆記してゆく。それをまとめたものが次々太郎さんの書物として出版されていった。青山の太郎さんのアトリエでは、半裸体で大きなキャンバスに飛びかかる太郎さんの背後から敏子さんが、「センセ、そこ紫を少し」とか「緑を薄く」とか声をかける。半ズボンをはくと子供のように見える太郎さんは、いわれた通りキャンバスに飛びついて絵具をおっつける。何から何まで合作で出来上がる2人は、まるで一つの人格のようであった。私はたちまち、2人の仲はただの関係ではなく、身も心も一つになった恋人というより、夫婦のようなものだと理解した。
断った私 2人が迎えてくれる 青山のその家の庭がアトリエになって、いつも若い青年たちが群れていて、大阪万博に出す作品を造っていた。台所や清掃は、よしえさんというしっかりしたもっと若い女性が取りしきっていた。でれほどそんな日がつづいたか。ある日突然、太郎さんが私に、「そろそろきみ、うちへ来て暮せば? 平野くんが忙しくて大変なんだよ。幸い、きみは文章も書けるし、助けてやってくれよ」という。私はびっくりして、ようやく作家になったばかりだから
、太郎氏の秘書になるのは嫌だと断った。太郎さんは顔を真っ赤にして、「きみはバカだ。下手な小説書くより、天下の天才の岡本太郎の秘書として、その才能の開花を手伝う方が、女としてずっと幸せなのがわからないのか!」と、どなりつけた。それでも私は断りつづけた。その時すでに、いつも和服の私のために、太郎さんは2階に、4帖半とか6帖の畳の部屋を造っていたというのである。
思いがけない速さで天才らしく早逝した太郎さんのお葬式の晩、異様に興奮した敏子さんが、「バカね、瀬戸内さん! あの時来ればよかったのに。畳の部屋はあの時造ったまま、2階にあるのよ。行ってみる?」という。私は愕いたが、場所がらその気にはならなかった。パーキンソン病から時々認知症のような状態も起こすようになった太郎さんを見守りつづけた敏子さんが、「もう疲れた!お願い!先生を寂庵へつれてって!」と泣いたこともあった。太郎さんの亡きあと、すべての後始末をして、敏子さんは青山の家の浴槽の中で、ある朝遺体となって発見されている。程なく私もあの世で、なつかしい2人に「遅かったわね」と、迎えられるような気がする。◇作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんによるエッセーです。

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