5月12日 甲子園ベストゲーム沖縄

朝日新聞2018年5月8日19面:沖縄の夢へ堂々逆転 頭上でぶつかる声援 許した5点でも焦らなかった 「声」と「声」がぶつかり合ってはじめるような感覚。それは、甲子園を知り尽くした左腕にとっても、初めての経験だった。「相手のアルプスの声援と味方の声援が、頭の上でぶつかるんです。今でも覚えています」。ソフトバンクの島袋洋奨は、懐かしそうにそう振り返った。2010年8月20日。史上6校目の春夏連覇を狙う興南のエース島袋は、準決勝のマウンドにいた。
相手は報徳学園(兵庫)。沖縄勢初の夏制覇に向けて盛り上がる興南スタンドと、地元の伝統校を後押しする声援。試合は4万6千人の大観衆が興奮せずにはいられない展開となった。島袋は一回に1点を奪われると、二回も制球が定まらない。二つの四球などで2死満塁のピンチを招くと、報徳の3番中島一夢に走者一掃の左中間三塁打を浴びる。続く越井勇樹にも適時打を浴び、一挙4失点。0-5と大きくリードを許した。
だが、島袋に焦りはなかった。「バッティング、いいなあ」。前年の春夏、そして優勝したこの年の選抜も合わせて、12試合目の甲子園マウンド。「これだけ取られたんだから、もう取られないでしょ」と、切り替える余裕があった。果たして、試合は島袋の「開き直り」の通りになる。三回以降、徐々に球が走り出したエースが得点を与えずに踏ん張ると、打線は五回に3点、六回に1点と報徳を追い上げる。そして、興南が試合の流れを完全にひっくり返すビッグプレーを見せたのは、六回の守りだった。
自信の中継プレー増していく球威 夏の初Vとらえた 1死から報徳の1番八代和真がライナーで左中間を破る。50㍍5秒8の左打者は、当然、三塁を狙った。「三塁までは行ってくれたほうがありがたい」。興南の中堅手慶田城開は、打球を追いながらそう思っていた。フェンスで跳ね返った白球をつかむと、何も見ずに、ただ三塁方向へ思い切り投げ返した。ここに、興南の中継プレーの特徴がある。
通常、外野手は中継に入った内野手に向けて返球する。だが、興南では、外野手は中継のラインだけをイメージして、「遠投」をするのだ。その返球に内野手が動いて距離を合わせる。打球を処理した外野手が、振り向いて内野手の場所を確認するわずかな時間を省くのが目的だが、もちろん、簡単ではない。毎日のキャッチボールからこのプレーを練習し、互いに肩の強さなどを熟知しているからうまくいく。
「うちはキャッチボールが一番きつい。その大切さが出た」と慶田城。遊撃手の大城滉二がつなぎ、三塁で八代を見事に刺したのだ。こうなると、王者の勢いは止まらない。七回1死二塁から、3番で主将の我如古(がねこ)盛次が左中間への同点三塁打。続く真栄平大輝が、報徳の「スーパー1年生」田村伊知郎から中前適時打を放ち、試合をひっくり返した。汗っかきで大会中に体重が6㌔減ったという島袋だが、球威はむしろ、試合終盤になって増していく。八回は三者連続三振でこの日初めての三者凡退。圧巻は1死一塁で3,4番を迎えた九回だった。
「最後は自信のある球で」。中島には初球にスライダーを見せた後、直球を続ける。カウント2-2からの5球目は高めの143㌔。顔の高さに来たボール球だったが、中島は「ストライクに見えた」。驚くほど伸びていた球に、バットは空を切った。越井にも直球を続け、この日12個目の三振で試合を締めた。翌日の決勝で東海大相模(神奈川)を下し、春夏連覇を達成したが、島袋は、異様な雰囲気の中で報徳を逆転した準決勝こそ、あの夏の「ベストゲーム」だったと記憶している。
(山口史朗)
好選手たち たどれば栽監督 沖縄の高校野球の歩みは栽弘義の人生と重なる。4歳で沖縄戦を経験し、米国統治下の戦後に野球を始めた。初めて1県1代表制になった1958年の40回大会は糸満2年。沖縄大会準決勝で敗れた首里が沖縄勢で初めて甲子園の土を踏んだ。中京大に進学し、本土で野球を学んで持ち帰った監督の第1世代に。教員となって2校目の豊見城で、返還後の75年春、赤嶺賢勇=元巨人=を擁して甲子園初出場を果たし、準々決勝に進出した。甲子園に春夏計7回(うち1回は部長)出場し、76~78年夏は3年連続ベスト8。
石嶺和彦=元阪急=や九州共立大を強豪野球部に育てた仲里清、沖縄尚学の監督として99年春に沖縄勢初の甲子園大会優勝を遂げた金城孝夫=現長崎日大監督=らも同校から巣立った。栽の監督人生の集大成は3校目の沖縄水産。上原晃=元中日、大野倫=元巨人=、新垣渚=元ソフトバンク=らを育て、春3回、夏8回甲子園に出場。2007年、65歳で死去。栽の教え子である金城が率いた沖縄尚学は、春の選抜大会を制した99年のエース比嘉公也が監督となり、08年春に東浜巨=ソフトバンク=を擁して2度目の優勝を果たす。比屋根渡渉=ヤクルト=、伊志嶺翔太=ロッテ=も卒業生。沖縄高だった62年夏に初めて南九州大会を勝ち抜いて甲子園に出た時のエースは後に広島で活躍した安仁屋宗八。近年は沖縄出身のプロ野球選手が増えた。ロッテの大嶺祐太は八重山商工のエースとして06年春夏の甲子園に出場。弟の翔太=ロッテ=も同校OBだ。ソフトバンクの中継ぎ・嘉弥真(かやま)真也は八重山農林、楽天の捕手・伊志嶺忠は北谷、巨人の宮国椋丞は糸満出身。中日の又吉克樹は西原の控え選手だった。
「沖縄の野球人で栽先生の影響を受けていない人はいない」と語るのは、沖縄水産が甲子園で2年連続準優勝をい飾った91年のエース、大野だ。「受けていない人がいるとすれば、我喜屋優さんぐらいでしょう」我喜屋は興南の主将だった68年に、夏の甲子園で沖縄勢初の4強入り。卒業後は沖縄を離れ、社会人野球で選手、監督として活躍した。07年に母校に監督として戻り、10年夏に沖縄勢悲願の全国制覇を果たした。この年は選抜大会も制しており、史上6校目の春夏連覇となった。中心選手は島袋洋奨=ソフトバンク=、大城滉二=オリックス=ら。同校はかつても友利結(デニー友利)=元横浜、仲田幸司=元阪神=ら好投手が輩出している。(編集委員・安藤嘉浩) ◇敬称略。

朝日新聞ASAの伸光堂西部販売 森林文化協会

ご予約・お問い合わせはお気軽に

Tel0120-740-276

〒352-0011 埼玉県新座市野火止8-14-29

ページトップへ戻る