5月1日 明智光秀、出生地伝説が続々

朝日新聞2019年4月27日be4面:産湯の井戸は4ヵ所も、深まる謎 戦国武将の明智光秀の出自は今も謎だ。主君の織田信長を討った本能寺の変で「天下の謀反人」とされたため、その前半生でのかかわりまでも忌避されたのかもしれない。一方で、来年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公に決まり、善政を敷いた「明君」の再評価が進む。「光秀公」とたたえる出生の伝説地も騒がしくなってきた。光秀出生の伝説があるのは1カ所ではない。昨年10月設立の岐阜県大河ドラマ「麒麟がくる」推進協議会が作った宣伝用のリーフレットには、恵那、河児、瑞浪、山県、大垣の県内5市が出生の伝説地として挙げられている。各市もこれまで「わが街こそ、光秀公の出生地」と主張してきた。恵那市明智町では毎年5月3日、「光秀まつり」で武者行列を披露してきた。合併前の旧明智町時代から数えて今年で47回目。「光秀の母」とする於牧の方の墓所も町内にある。
河児市では地元の明智城に伝説がある。岐阜市の歴史伝承フォーラム代表、田中豊さん(80)は、光秀の母が里の明智城に戻った際に出産したとの古文書の記述を指摘。「各地の言い伝えより信頼性が高い」とみる。瑞浪市は美濃国(岐阜県南部)の守護大名だった土岐氏の発祥地とされ、同族の光秀を輩出したと伝わる。山県市には、山崎の合戦で羽柴(豊臣)秀吉に敗れて殺害されたのは光秀の影武者で、光秀は故郷の同市中洞地区に落ち延びたという伝説まである。光秀はその後、徳川家康の東軍に加わろうと関ヶ原の合戦に向かう途中、増水した川で水死したのだという。
岐阜県内では新しい伝説の地が大垣市上石津町だ。田中さんが調べた古文書の中には、多羅城で生まれたと読み取れるものもあり、この城は同町内にあったと推定できるという。地元では地名に「城」の字が付く5カ所の現地調査を始めている。光秀がつかった産湯の井戸の伝説は大垣を除く4市にある。出生地はどこなのか、謎は深まるばかりだ。光秀と同時代を生きた人々は、光秀にまつわる記録を残した。朝廷関係者の立入宗継は覚書で光秀を土岐氏の中で地位が高い者とし、光秀と親密だった公家の吉田兼見は美濃国にいる光秀の親類の様子を筆記に書いた。光秀の出生地の「通説」は美濃国とうかがわせる傍証にも思えてくる。
近江国に最新説 土岐から六角? そこに最新説が出て。近江国(滋賀県)出生説だ。滋賀県教育委員会文化財保護課主幹の井上優さん(53)は、江戸時代前期の地誌『淡海温故録』で、光秀の出生地が犬上郡左目だとうかがわせる記述に着目した。犬上郡は滋賀県の郡の一つだ。井上さんは「さめ」と読む郡内の地名を調べ、昨年秋に現地の住民らに聞き取り調査をした結果、多賀町佐目に「十兵衛屋敷跡」の伝承があることを確認した。「十兵衛」は光秀が生前に呼ばれた名。今は畑地だが、所有者の一人、見津新吉さん(71)は「光秀はここで生まれ育ったと父から聞いた」。同書には、土岐氏に背いた明智家の先祖が近江国の六角氏を頼ったとも書かれている。光秀が歴史の表舞台に登場したのは越前国(福井県)の朝倉氏のもとにいた際、信長に仕えるようになったころから、とするのが広く知られた定説。だが、光秀はそれよりも前に近江国の琵琶湖西岸にあった田中城(現・滋賀県高島市)に籠城したとする古文書も確認され、研究者の間で注目されている。井上さんは「光秀は六角氏の指図で田中城に籠城したと考えられ、近江国出生説ともつながるのではないか」とみている。
前半生改ざんか出自解明難しく 光秀の出生地を明確に記した一級史料は確認されていない。戦国時代を研究している京都橘大学名誉教授の田端泰子さん(77)は土岐氏の系図を調べた結果、「江戸時代後期になって、光秀の親族を意図的に削除した形跡がある」と判断した。光秀は、縦社会の秩序を重んじる江戸時代の儒教文化の浸透によって、さらに「悪人」のイメージが強まった。そのため、「光秀とのつながりを示すのがはばかられたのでしょう」と田端さん。それが光秀の出自の解明を難しくしているという。では、なぜ、光秀の出生の伝説があちこちにあるのか。田端さんは「光秀や先代たちは将来有望な武将を見極めるため、特定の地にとどまらずに主君を変えていったのも要因の一つではないでしょうか」と推測する。光秀の「出生地」は6カ所に達した。その軌跡は、弱小の武士たちが戦国の世を生き抜こうとした知恵を示しているようにも見える。(辻岡大助)

 

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