4月30日 歴史探偵おぼえ書き 半藤一利

朝日新聞2019年4月27日be4面:本物のハチ号 私も会っています とにかく人でいっぱいである。昔は待ち合わせの名所として知られていたが、いまは見物客のほうが多いかもしれない。先日も通りかかったら、スイマンセンガ、シャッターオシテクダサイ。気安く応じたら、次から次へと。いやァ、参った参った。渋谷駅前の忠犬ハチ公の銅像の話である。いまのは二代目らしいが、わたしは初代のハチ公の銅像の足をなでた記憶がある。『B面昭和史』でいっぺん書いたことがある。満四歳の腕白坊主のとき。昭和九年(1934)四月、初代銅像ができたということで、完成披露の除幕式の盛大な様子が新聞で報じられて、東京中の少年たちの大そうな話題になった。隅田川のむこう側の下町生まれのわたくしは、どうしても見たいと大人にせがんで、はるばると出かけていったと覚えている。
そしてびっくりしたこともまざまざと思いだせる。銅像のすぐ脇に本物のハチ公がチョコンと前足をそろえて座っていたのである。何だ、お前もいたのかと、カステラのかけらを与えたら、パクンと。やたらにでかい犬であったように感じられた。彼の本名はハチ号であるということや、翌十年三月に十三歳でこの世を去った、ということも記憶にあるけれど、そうすると、一年間も本物と銅像はならんで見物人たちを迎えていた、ということになるのであろうか。ちなみに「夏は涼しく冬は暖か」が売りであった東京地下鉄道(現東京メトロが、浅草から上野まであったのが、新橋までのびて、浅草ー新橋間が開通したのはこの年の六月二十一日のことである。したがって、悪童のわたくしがハチ公の足をなでにいったのは、そのあとのことということになる。そういえば、新橋から省線電車(現JR)に乗りかえて渋谷までいった記憶もうっすらとある。いま、黒山の人でハチ公の銅像をとっくり眺めることもしないが、本物のハチ号の死んだとき、昭和十年三月十三日付の東京日日新聞(現毎日新聞)夕刊の記事の写しが手もとにあって、さきどきなつかしく眺めている。
「花環廿五、生花二百、手紙や電報百八十通、短冊十五枚、色紙三枚、書六枚、學童の綴方廿、清酒二百余圓といふ豪勢さであつた」そのほか付近の商店ではハチ公せんべい、ハチ公そば、ハチ公焼き鳥、ハチ公丼などを売りだして、大いに稼ぎまくったという。ハチ公人気がどれほどのものであったかがよくわかる。まさか翌年に二・二六事件、さらにその翌年に日中戦争が起こるなどと予測しているものはいなかった。「世はなべて事もなし」と国民はまだ浮かれていたのである。

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