4月30日 「西の怪童」のみち(大阪市)

朝日新聞2019年4月27日be6面:病魔と闘い、将棋と生きた 「なれなければ死ぬしかないと思った」。17歳で、対局の自戦記にそこまで赤裸々に書いたのは、念願の四段昇段を決めた一戦だったからだろう。「どうせ自分は永く生きられないと思った。そう思ったらなんでも出来る気がした」「好きなこと、やりたいことを全部やって死にたい」 村山聖。たんぱくが尿に出て顔や体がむくみ、疲れやすく、悪化すれば腎不全も起こす「ネフローゼ症候群」になり、小学校時代の大半を病院や療養所の院内学級などで過ごす。中2で棋士の養成機関・奨励会に入り、プロ棋士の条件である四段に昇段。「西の怪童」と呼ばれA級・八段まで上りつめたが、1998年、がんのため29歳で死去。死後、九段を贈られた。聖が「世界一の師匠」と慕った森信伸七段(67)と記者は、大阪市福島区の関西将棋会館周辺を歩いた。森さんが14歳の聖と同居した「市山ハイツ」。会館から7.8分の道を聖は20分以上かけ、ゆっくり歩いた。跡地は企業の施設となっていた。
広島県府中市で生まれた聖が将棋を父の伸一さん(82)に教わったのは入院中の6歳の時。前の年に高熱を出し、近所の医師は風邪といったが治らず、母トミコさん(85)が広島市民病院に連れていくとネフローゼとわかった。療養所で驚くほど将棋に熱中、トミコさんは将棋の本を買い求め、棋譜を載せた新聞記事をスクラップして渡した。中1で「プロ棋士になる」と言い出し、両親は反対した。だが最後は「やりたいことを、やらせてやろうと」(伸一さん)。師匠を引き受けたのが森七段だった。「不思議な縁としかいいようがない」と森さん。身なりに構わない初めての弟子の髪を洗ってやった。将棋会館で夜遅くまで将棋に取り組んだ聖が森さんのいる雀荘に来て一緒に帰った。病院の検査にはトミコさんが広島から来て立ち合うが、森さんが代わる時もあった。
大淀南公園に着く。聖が森さんと自転車に乗る練習をした場所だ。「森先生ですか?」。突然声が聞こえた。近くに勤める小林美奈子さん。聖の生きざまを知ってファンになり、ゆかりの地を巡り歩いたこともあるという。「ストイックで、ちょっと狂気があるのが魅力。なりふり構わないところも」。「将棋に関してはね。会ったらカワイイですよ」と森さんは笑う。「前田アパート」が見えてきた。奨励会合格後、しばらくして広島に戻り、大阪の将棋会館まで通った聖が85年、大阪で一人暮らしを始めたのがこの2階の4畳半。推理小説やマンガがぎっしり、足の踏み場もない乱雑さだったが聖には落ち着けた。バシン、バシンと駒を打つ音が1階の「三谷工業」まで聞こえた。「終盤は村山に聞け」と読みの深さは折り紙付きに。近くの「大淀ハイツ」に移った森さんの元にやって来て、照れくさそうにしていたという。だが体調が悪いと横になり回復を待つしかない。三谷工業の田中充さん(75)は早朝、アパートの壁にもたれて動けない聖を、対局が待つ会館まで車で運んだ。95年、順位戦A級・八段のトップ棋士に。ネフローゼ患者団体の解放に寄稿した。「もう走る事はないでしょう。しかし力いっぱい走る体験よりも、もっともたくさんの経験をこの病気はくれたように思います」
 青春、死後に「伝説」となる 前田アパートの部屋を残したまま、東京に活動拠点を移した聖から、「血尿が出る」と伸一さんが聞かされたのは高松での将棋戦で会った96年末。翌年4月に広島で検査を受けた。膀胱がん。腎臓も傷みきっていた。6月に広島で8時間半の手術を受けた。前期にA級から陥落した聖が復帰を目指す順位戦が始まっていた。広島から大阪に乗り込み、丸山忠久九段(48)との対局で深夜に及ぶ熱戦を展開。敗れはしたが、広島から付き添いが同行しての対局は語り草になっている。98年3月にA級復帰を果たした聖は1年間の休場を決めた。がんが再発。このころ、日本将棋連盟が出版する「将棋年鑑」の棋士アンケートで「好きな言葉」を「土に還る」、「今年度の目標」には「生きる」と書く。大阪の前田アパートを引き払った。「あそこだけは残せと言ったが聞かなかった。嫌な予感がした。理由は言わなかったが、自分の命の限りを見切ったのかもしれない」と森さん。
広島市民病院に転院。弁護士に遺言書の作成を頼んだ際、「あと3ヵ月で僕は死にます」と伝えたという。8月8日。両親に見守られ、棋譜をうわごとのように口にした後、午後0時11分、旅立った。「西の怪童」の実家に最初に弔問に訪れた棋士は、同世代で「東の天才」と呼ばれた羽生善治九段(48)だった。
聖の名は、むしろ死後、一般に広まる。短くも鮮烈な生涯を当時「将棋世界」編集長で現作家の大崎善生さん(61)が描いた『聖の青春』が2000年に出版されてからだ。テレビドラマやマンガになり、16年には映画化もされた。「あれだけの病気を抱えながら棋士をやり、しかもA級八段まで上った人は、そうはいない。将棋で自分のすべてを表現し、自分の生きる意味を将棋に出し尽くした」と大崎さんは言う。主のいない前田アパートの部屋には、今もファンや棋士を目指す小学生らが訪れ、ノートに思いを書き残していく。「将棋会館からここまで歩いてくる道のり、村山先生が何を考えていたんだろうと考えていました」「私ももっと『生きる』ということに真剣に向き合わないと」森さんは「将棋への執念には僕も影響を受けた。あの体調での対局は苦しかっただろうが、ある意味、全うできたと思う。村山君の人生に関わり、すごく幸せだった」。文筆でも活躍する同世代の先崎学九段(48)は東京時代の聖と飲み仲間で、徹夜マージャンも楽しむ間柄だった。普通の青年がすることを自分もやりたいという気持ちを聖に感じた。ある夜、新宿のバーで好きな赤ワインを飲み過ぎて泥酔した聖が突然、早口で話し出した。「母に心配かけるのがつらい」。動けなくなり病院に運ばれた聖に先崎九段は付き添った。
亡くなる年の2月、忘れがたいことがあった。先崎九段が順位戦の昇級を決めた対局の席。感想戦の最中、突然、肩を後ろからたたかれた。聖だった。「おめでとう」。そうして出て行った。「将棋指しとして一番とんがっている時に生涯を閉じた。だから人の心を打つ。だけどもっと生きたかったんですよ。1年でも長く」将棋のコンピューターソフトが格段に進化し、将棋界は聖の時代とは様変わりしている。「優れた将棋ソフトをいかに早く入手し、調和し、自分の肥やしにするか。棋士の環境は大きく変わった」と大崎さんは指摘する。だが将棋からドラマが消えることはないとも言った。村山聖は何度でもよみがえる。将棋に人生を賭けた永遠の青年として。 (小北清人)

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