4月29日 甲子園ベストゲーム47福島

朝日新聞2018年4月24日20面:ちびっ子軍団 無限大 平均168㌢草野心平が称賛の詩 磐城高出身の詩人、草野心平がチームの帰郷時に作った「ふるさとは君たちを迎える」の詩が、福島県民の思いを代弁していた。参加全チームのうち、ずば抜けてチッチャな君たちが次から次と強敵を倒していった。人間の可能性は無限であり、また人間の精神力は不可能を可能にすることも出来る。その証しを君たちが具現したかのように
中堅手だった宗像治・前県高野連理事長は、当時をこう振り返る。「平均身長は168㌢くらい。ちびっ子軍団と言われた。須永憲史監督はデータを集め、相手選手の名前、身長、特徴など暗記させられた。初めて戦う相手でも、相手を知り尽くすという意味で常に優位だった」1971年8月16日、決勝。ノーシードの福島大会から東北大会を勝ち抜いて2年連続で代表になった磐城は、初出場だった桐蔭学園(神奈川)と対戦した。
「我々はそこまで無心だった。初戦優勝候補の日大一(東東京)に勝てると思っていなかったし、その後も勝ち進むとは思ってもいなかった。それが決勝前日に『ここまで来たら、勝ちたい』と話し合った。少し、欲が出てしまったかな」試合は緊迫した投手戦になった。磐城の主戦は163㌢で主将、「小さな大投手」と言われた田村隆寿だった。甲子園入り後、日大一に1-0、静岡学園(静岡)は3-0、準決勝の郡山(奈良)は4-0と、3試合連続で完封勝利を挙げていた。
当時の印象を宗像は「針の穴を通すような制球。四球は考えられない。内、外野にサインが来て守備位置を変更しても、捕手の構えたところに投げるので不安がない。V9のまっただ中だった巨人の川上監督が『磐城の田村を見習え』と投手に話した、と聞いた」と振り返る。相手投手の大塚喜代美は下手投げ。準決勝で同じ下手投げを攻略した自信もあった。「対策は練っていた。大塚投手は浮き上げってくる球を投げる素晴らしい投手だったが、連投で思ったより球は来ていなかった。だから、『打てる』という気持ちが力みになったかも知れない」。
試合が動いたのは七回。1死から田村のカーブを桐蔭学園の4番・土屋恵三郎が右中間に三塁打した。この大会、田村が打たれた初の長打だった。2死後、打席に峰尾晃。1ボール2ストライクから田村はカーブのサインに首を振った。選んだのはこの大会でさえていたシュート。だが、落ちが甘くなる。左中間に三塁打され、これが決勝点となる。この大会で唯一と言ってもいい失投だった。
34イニング目に初失点した田村は、試合終了後こうコメントしている。「最初の三塁打は内角から真ん中に入るカーブ。決勝打は投げ急いですっぽ抜けてしまった。ここまでやられたから満足。『一球入魂』という言葉が好きで、いつもそれを思い出しながら投げた」反撃する磐城は八回は1死二塁、九回も2死三塁まで攻め込んだが、1点が遠かった。「点を取られた七回から雨が降ってきたが、気にはならなかった。逆転出来ると信じてやっていた」と宗像は語る。
炭鉱閉山 準優勝に街は沸いた この年の4月、磐城の地元いわき市は生活の基盤だった磐城炭鉱の閉山が決まり、暗いニュースに包まれていた。大優勝旗にこそ届かなかったが、東の横綱と言われた日大一戦から始まった快挙に市民は沸いた。今は禁止の帰郷後のパレードには15万人の人出があったと記録が残っている。「甲子園に入ってから全部で2週間くらい。日大一との対戦が決まり、OB相手に打撃練習をした。甲子園出練習はさらにきつくなった。決勝が終わる頃はお盆。早く帰って受験勉強をしなきゃあ、と思った。人生の中で一番充実した日々を過ごさせてもらった」
聖光 戦後最多の11年連続出場 彩る球児たち~100回 戦前の福島師範に始まり、三浦広之、古溝克之=ともに元阪急=が輩出した福島商、そして磐城と続いた公立の隆盛は、昭和の終盤から私学へ移った。先駆者は学法石川。横浜市出身の柳沢泰典の指導の下、1976年に春、夏連続出場してから計12回。箕島(和歌山)や池田(徳島)などから「打ち勝つ野球」を学び、松井達徳=元中日=らを軸に活躍した。柳沢は総監督だった99年夏の81回大会、甲子園の客席で同行の試合中に倒れた。葬儀には遠藤一彦=元大洋=、諸積兼司=元ロッテ=、川越英隆=元オリックス=ら教え子たちの弔問、弔電が相次いだ。
関東出身者が目立った学法石川に対し、県内勢で戦ったのが日大東北。磐城の準優勝メンバー、先崎史雄が監督で87年の69回大会に初出場。OBの宗像忠典が引き継ぎ、機動力と先を予測する緻密な野球で力をつけた。96年の78回大会から3年連続、84回(2002年)、85回(03年)も出場した。
続いたのは聖光学院。当初は磐城の準優勝メンバー、田村隆寿が指揮を執ったが、福島で投手だった斎藤智也が仙台大を出て00年シーズンから就任。現在の「一強時代」を築いた。就任1年目からモットーは不都合、逆境を成長の糧と考える「不動心」だ。甲子園初出場した01年の83回大会は初戦で明豊(大分)に0-20で大敗。「軽自動車に毛が生えた程度では3千ccの車には歯が立たない」。ウェートトレーニング、坂道、階段ダッシュ。心とともに体幹を鍛えるきっかけになった。86回(04年)で、9年続いた福島勢の初戦敗退を阻むと、90回(08年)、92回(10年)、96回(14年)、98回(16年)は準々決勝進出。99回まで11年連続出場は戦後の最多記録だ。
プロは歳内宏明=阪神=が同校で1号で、横山貴明、八百板卓丸=ともに楽天=、園部聡=オリックス=の計4人。斎藤監督は「うちは入ってきた子を育て、作り上げる。甲子園の回数の割にプロが少ないのもうちらしさ」。東北勢悲願の頂点を見据える。他校では、DeNA監督だった安積商(現帝京安積)の中畑清、相馬からは足のスペシャリスト鈴木尚広=元巨人=、勿来工の小松聖=元オリックス=、光南の佐藤勇=元西武=らがいる。17年秋は学法石川の尾形崇斗=ソフトバンク=と光南の松本京志郎=楽天=が育成枠でプロ入りした。
悩みは全国に輪をかけた部員減。11年の東日本大震災による原発事故で、外出禁止になった子どもらの野球離れが進んだ。小針淳・県高野連理事長は「今は小、中学校と連携を深めるしか手が無い」と語る。(竹園隆浩)

 

朝日新聞ASAの伸光堂西部販売 森林文化協会

ご予約・お問い合わせはお気軽に

Tel0120-740-276

〒352-0011 埼玉県新座市野火止8-14-29

ページトップへ戻る