4月1日 みちものがたり 松下幸之助の出征街道(大阪府)

朝日新聞2018年3月24日be6面:妻のひと言が歴史を変えた 「歴史に『たられば』は禁物」といわれる。うらを返せば、「もしも・・」と妄想を膨らませると、面白いということだろう。今月7日に創業100年を迎えた世界的な総合電機メーカー、パナソニックにもこんな話がある。創業者の松下幸之助は、本当はぜんざい屋さんがやりたかった。それを止めたのは一つ年下の妻むめの。「水商売は嫌です」と断った。
この言葉がなかったら、今のパナソニックは存在せず、日本の家電の歴史も少し変わっていたかもしれないー。幸之助が設立したPHP研究所(京都市)によると、このエピソードを裏付ける資料はないが、ぜんざい屋をやりたかったというのは間違いないらしい。1970年代の雑誌インタビューで、幸之助は「電器屋するようなこと、思うてなかったです。僕はぜんざい好きやから、そういうものがちょうどええやろうなと自分で思うとった」と答えている。幸之助は1894(明治27)年、和歌山の小地主の家に生まれた。父親が米相場で失敗。9歳の時に大阪に丁稚奉公に出された。最初の火鉢店では、砥草(とくさ)で商品を磨く仕事ですぐに手がすりむけ、夜は母親恋しさに泣いた。15歳で大阪電灯(現関西電力)に転職し、20歳で結婚。あるとき電球を差し込むソケットの改良を考案するが、上司は「この程度のものだと課長にも相談できない」と相手にしない。あきらめきれず、1917年に独立を決心し、会社に辞表を提出。22歳だった。大阪・猪飼野(大阪市東部)の自宅で改良ソケットの製造に乗り出した。
翌年、より広い拠点を求めて大開町(現大阪支福島区大開)に移り住んだ。ここで、初めての会社組織「松下電機器具製作所」を設立する。売上高約8兆円、世界47カ国・地域に約27万人の従業員を抱えるパナソニックの原点だ。部屋の壁にコンセントなどまだない時代に、電灯と扇風機などの家電が同時に使えるようにする「二股ソケット」、ナショナルブランド商品の第1号となった「角型ランプ」・・。大開で開発した初期のヒット商品が大衆の心をつかんだのは、他社製品よりも値段が安かったからだ。
大開の「創業の家」は借家の1階を工場にした。庶民に手の届く値段に下げるため、棚をつり、その上下で作業してスペースを2倍に活用。効率的に生産する工夫を重ねた。取引先には「まるで蒸気船の船室やな。なるほど、君とこは安くできるはずや」と感心されたという。大開では出会いにも恵まれた。なかでも、松下電器の成長に大きく貢献したのが中尾哲二郎だ。後に研究所長や副社長を務め、松下の「技術の総師」といわれた人物だ。
23(大正12)年、幸之助は大開の第1時本店・工場に旋盤を仮にきていた下請け会社の哲二郎を見て、腕の良さに感心。松下に招き入れた。松下にとって初の家電製品となった「スーパーアイロン」は、「他社に品質で劣らず、価格は3割安くしろ」との幸之助の指示に、電熱器の知識もなかった哲二郎が3カ月で開発し、応えたものだ。
その後も電気コタツやラジオなど看板商品を次々に世に送り出し、松下の名を上げた。幸之助と妻むめの、その弟の井植歳男(後の三洋電機創業者)との3人で始めた会社は、成長とともに大開町内で転居を繰り返した。33(昭和8)年に現在の大阪府門真市へ本社を移す前には従業員千人超の大企業になっていた。大開の街おこし団体は今、松下の旧本店・工場跡地に続く商店街の道を、「なにわの出世街道」と名付けて観光客を呼び込む。毎年11月には、幸之助が好きだったぜんざいを振る舞うイベントも開く。
街おこしに取り組む一人、松本好治さん(69)は、親類から受け継いだ祖父と幸之助らの「又行会」の参加者が、お伊勢参りにいった昭和初期の写真を今も大事にしている。幸之助や大開の酒屋、米屋の店主ら11人は親睦会をつくり、皆でお金を積み立てては旅行した。また遊びに行こう、また遊びに行こう、といっているうちに会の名ができた。門真移転の後も付き合いは続き、62年にあった松本さんのおじの葬儀の芳名録にも「松下電器取締役会長 松下幸之助」の名前が残る。経営者としての自分を育ててくれた創業の地・大開。幸之助は89(平成元)年に亡くなるまで生涯、本籍地を大開から動かさなかった。
理念を問う「経営の神様」 家電の本格的な普及が始まった1950年代半ば以降、松下電器産業は飛躍的に業績を伸ばした。幸之助はほぼ毎年、長者番付のトップに名前が載り、いつしか「経営の神様」と呼ばれるようになる。何のために会社を経営するのか。幸之助が繰り返し強調したのは「理念」の大切さだ。これは、大開時代の自らの体験に基づいている。32年、取引先のすすめで奈良の天理教本部を訪ねた幸之助は、信者たちが喜んで奉仕作業に従事する姿をみて、宗教が人々にもたらす精神的な豊かさに心を打たれた。帰り道で、そして大開の家に戻っても考え抜き、思いついた。
精神的な豊かさと物質的な豊かさは幸福になるための「車の両輪」ではないか。物資の生産を通じて貧困をなくすことも宗教と同じように聖なる事業ではないか、と。その年の5月5日、幸之助は大阪市の「中央電気倶楽部」に社員を集めて発表する。「道ばたの水道から水を飲んでも、とがめられないのは生産量が豊富で値段が安いからだ。松下電器の真の使命は、すべての物質を水のごとく生産し、貧乏を克服することにある」。いわゆる「水道哲学」である。ほかにも、幸之助は94歳で亡くなるまでに60冊以上の著書をあわらし、「企業は社会の公器」「ものをつくる前に人をつくる」といった名言を数多く残した。
幸之助の言葉を傾聴、共鳴した経営者は少なくない。日本航空の再建にも尽力した、京セラの稲盛和夫・名誉会長(86)もその一人だ。京セラを創業して間もないころ、稲盛さんは幸之助の講演を聴きにいった。需要の変動に備え、ダムで水をためるように資金や設備などに一定の余裕を持たせておく「ダム経営」の話だった。
聴衆の一人が「どうしたらできるのか」と尋ね、幸之助は答えた。「自分でも知りません。しかし、必要だと思わな、あきまへんな」それを聞いてみんな笑ったが、稲盛さんは違った。「何かを成そうとするときは、まず心の底からそうしたいと思い込まなければならない。強い意思が経営者には必要なのだ」と気づいたと、後年の著書で明らかにしている。「自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある」。幸之助は人生についてもそう語った。大開にある「創業の地」の記念碑に記された「道」の一文字を見つめているうち、幸之助に聞かれているような気がした。「あなたはどんな道を歩んでいますか?」 (清井聡)

朝日新聞ASAの伸光堂西部販売 森林文化協会

ご予約・お問い合わせはお気軽に

Tel0120-740-276

〒352-0011 埼玉県新座市野火止8-14-29

ページトップへ戻る