3月8日てんでんこ 新聞舗の春「5」

朝日新聞2018年2月27日3面:「俺にも1部くれ」。人々が奪い合うように新聞を手に取った。 2011年3月12日午前1時。福島県南相馬市にある朝日新聞の拠点に朝刊を取りに向かっていた「鈴木新聞舗」前所長、鈴木宏二(74)は、浪江町の新聞舗に戻ってきた。道路が冠水し、朝刊を取りに行けなかったことを次男で現所長の裕次郎(34)に伝えた。「今ある新聞だけでも配ろう」 裕次郎がそう言うと、それぞれの配達員が朝刊を抱え、受け持ち地域へと飛び出した。被害を受けた地域を避け、出来る限り新聞を配ろうとしたが、家屋が崩れ、がれきが散乱し、新聞受けに近づけない。裕次郎は山間部へ車を飛ばしたが、こちらも道が断絶、崩落して先に進めない。
裕次郎は配達できなかった新聞の束を抱え、住民が避難している体育館へと車をはしらせた。体育館の床の上に新聞の束をどかっと降ろすと、人々がすぐに集まり、奪い合うように新聞を手に取った。
写真を見て涙を浮かべる人。「俺にも1部くれ」と叫ぶ。町は停電したまま。テレビも見られない。みな被災の現状を記した記事を食い入るように読み続けている。小さい頃から配達してきた裕次郎は初めて、新聞の役割と、新聞を配る仕事の意義を理解した気がした。高齢者が多く暮らす浪江町は、住民の8割が新聞を購読する「新聞の町」。今こそ、新聞が必要とされている。裕次郎は「明日も配ろう」と心に誓った。
だが、配ることができなかった。12日午前5時44分。政府は、東京電力福島第一原発から半径3㌔に出していた避難指示を浪江町を含む同10㌔に広げた。明け方、裕次郎が新聞舗に戻ると、町内放送がしきりに町西部の津島地区の集会場に避難するよう呼びかけていた。宏二や裕次郎らは国道114号で西へ向かったが、避難する車で大渋滞。やっとの思いでたどり着いた集会場の駐車場も満杯だった。宏二たちは福島市で暮らす長女のアパートに身を寄せた。「家を出るときは2.3日で帰れると思っていた」。宏二は当時を振り返る。12日午後3時36分。1号機が水素爆発。長い避難生活が始まった。(三浦英之)
🔶てんでんこ 津波避難は各自という事前の約束により、生存者が死者に抱きがちな自責の念を和らげる面も。

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